彷徨うおっさん139 未熟なアイデンティティ(3/7) アイテンディティは他者理解に不可欠
前回は、アイデンティティ崩壊と激しい防衛本能の発揮、ドイツの心理学者エリクソンの考案した、8つの発達段階による、本来あるべきアイデンティティの確立の重要性について、おっさんの体験談を交えながら述べた。
今回は、他者理解と調整に対する、アイデンティティの必要性について、おっさんの体験を交えつつ述べたい。
<アイデンティティ確立が不十分な人がやりがちなモラル語り>
また、この手の人物について、似たような人を何人も見てきたが、気にくわない事がある都度の言動に一定の傾向も見られる。概ね、
「普通はそんなことはしない。」
「(字面通りのルールを述べて)それはいけない事だ。」
「(コンプライアンスやハラスメントといった一見社会のルールやモラルっぽさを匂わせる単語を接頭語に用いつつ)君の考え方がおかしい。」
こういった、一般論化や、分かり切った事の断定的な主張、所謂「モラル語り」に徹する傾向がないだろうか。
実際に、紹介した例の人物は、食事にありつけなかったことに大きく腹を立てた一方で、普段から
「容姿いじりは良くない」
「(コロナ明けてマスクの取れた現在でも)咳やくしゃみのエチケットを守れ」
「ダルがらみするな」
といった内容で、本気で友人に怒る人物でもあった。一方で、食に貪欲な問題の他にも、勝手に携帯電話をのぞき込んだり、公然で友達に騒がしく接したり、接客業で上司の適切な指導に反発して、逆にパワハラを訴えたりと、本気で怒られてもおかしくないような稚拙さを持っていた。故に本気で怒るその姿も、なんとも説得力がない、身勝手な批判に見えてしまっていた。
いい大人であればルールや常識などは踏まえた上で、多少の逸脱は想定するのが普通である。つまり、勝手に携帯を覗こうが、騒がしかろうが、大人同士ならば上手くやるために、あるあるで取り繕うことだってある。
逆に、モラル語りは不毛なのでしない。
多少いじられようが、ついくしゃみが出て押さえるのが間に合わなかろうが、多少面倒な接し方をされようが、一先ずのみ込んだうえで、現実との差を認識しつつ、実際うまくやるためにはどうするかの話に終始するのみである。
つまり、一面どんなに未熟であろうと、まずは相手とアイデンティティのすり合わせをして、距離を決めるのである。
<アイデンティティが脆いと、例え嫌われてもモラル語りが精一杯になる>
アイデンティティが確立出来ている大人同士であれば、繰り返すが、大抵の事は気にせず、微妙に距離調整するぐらいで終わる。また、どうしても嫌なら、ルールによらず個人として嫌とだけ言ってそれ以上踏み込まない。
だがアイデンティティが不十分な人は、一般論や分かり切ったルールの断定的な主張で白黒つけようとしてしまう。これは、自分のアイデンティティが脆いのですり合わせに耐えられず、逆に一般論や分かりきったルールを盾に、一先ず自分を守ろうと考えてしまうからだと思われる。
だがそれでは、いつまでたっても相手と調整がつかない。そして、アイデンティティがあれば調整の上、一般的なルールやモラルの逸脱もいくつかは受け入れてもらえたであろうことが、ルールを持ち出したことで逆に、自らの不足や逸脱もまた、強く指摘、批判されて、地団太を踏むようなことにもなる。
例えばタバコは体に悪いのが常識だ。だが、それが常識だとして大声で喫煙者に主張を繰り返してもぜったいに相手と仲良くなれない話は分かり易いと思う。
仲良くなるならむしろ、しれっと喫煙を許容しつつ、別の共通の話題などを探した方が良いだろう。
何度も何度も字面どおり「あんなものは不健康だ」「分かってて吸うなんてバカでしょう?」「くさい、迷惑だ。」などと言い、相手が恐れ入ってひれ伏すまで戦いを挑んだり、謝罪を求め続けてしまう。或いは「喫煙所行けよ」などと字面どおりのルールで論破しようとしてしまうと、必ず嫌われる。
ルールはアイデンティティ確立の基礎の基礎に過ぎない。だが、それを大人同士の会話で多用しようとするのは、脆いアイデンティティしか持っていない証左では無かろうか。
自分を守るのに必死であれば、他者のアイデンティティを理解できないし、節操もなく、自分にとって都合の良い解釈が出るまで、嫌われても永遠に、ルールベースで議論ができてしまう。それが彼らの理屈であり、行動パターンと言える。
<ルールを超えたやり取りができるのが大人だが>
無論青年期ならば一先ずは字面通りのルール踏襲でも良いが、いつまでも自分の都合でルールを解釈してばかりではうまく行かないし、ルールを守るにしても現実的に矛盾や限界があることは、経験を通じて徐々に認識していくことでもある。
紹介した例の人物は、どうしても食べたいという欲求が抑えがたく、思い通りにならないと怒るといった態度があり、それこそルールを守る限界が露呈している。
ここを他者が許容するかはある意味、アイデンティティ次第でもあり、許容してもらうにしても、字面通りのルールで正当性を主張する段階を卒業し、限界を認められる健全なアイデンティでなければならない。
ルールを一旦度外視して、落としどころを決めることすらできるのが成人=大人でもあるが、結局は当人同士が大人でなければ成り立たないのだ。
健全なアイデンティティは、青年期を脱して成人期に移行した時点で持っていて当たり前にしなければ、その先の精神的な発達が無い。また、脆く傷つきやすい
自我をいつまでも持ち続けることとなり、大人の世界では非常に生きづらいように思う。