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彷徨うおっさん122 ネガティブ・ポジティブどっちがいい論争(中編) 雑なカテゴライズの問題、ネガティブもまた単なる役割

 前回は、やたらポジティブ思考が礼賛される現状にあって、ポジティブとはある意味「バカ」になる思考法であり、「ポジティブ=バカ」は、良い面もあるが、問題もあり、そして役割に過ぎないのだと述べた。
 今回はその続きとして、ネガティブもまた役割であり、安易に他者の評価に使うべきではないことを述べたい。

<全員がお姫様というわけにもいくまい>


 前回から述べてきたが、それでも近年は、ポジティブのみを正しいものとして、全員で「ポジティブ=バカ」になろうという空気感が拭えない。

 バカは全員がなれるものではないし、賢い人も社会には必要であるのに。。。

 例えばそんな概念は、幼稚園のお遊戯会レベルでも痛感できるものではないだろうか。つまりよくある「全員がお姫様に選ばれるわけではない」という話だ。

 また、何故自分がこんな役に?と思うような意外過ぎる配役(だけどその子にピッタリで個性を活かせる)を貰う子もいる。
 非常に平凡な村人Aや、一瞬見切れるだけの動物の役割の子だって構わない。それはそれなりであるし、単にお遊戯が向いていない(または本人が嫌がる)から、うまく配置されただけかもしれない。

 それを本人が色々と文句や希望を言うならまだしも、親が騒いだら恥ずかしいと大概の人は思うはずだ。
 親としては何も言わずに役割ごと我が子を愛せばいいし、与えられた役割をこなすことを期待するのがせいぜいでよい。
 清濁併せ含む大人ならば、そんなことでいちいち優劣をつけて騒ぐ必要はないのである。

<雑なカテゴライズの問題、ネガティブもまた単なる役割>


 にもかかわらず、なぜこうもネガティブが拒否され、ポジティブばかりが礼賛されるのであろうか。

 やはり、ネガティブだと二の足を踏んでしまうという一面だけとらえ、本来の意味である「社会上の役割の違いに過ぎない事実」を忘れているからのように思う。日本人の多くはその事実を冷静に考えられない(お遊戯会の子供の役割にクレームを入れてしまう)程、子供の面があるのかもしれない。

 同様の子供っぽさとして、占いやランキングが好きな性質も日本人に見られるが、その点も影響しているように思う。即ち、暗い明るい、良い悪い、優劣という形で「雑なカテゴライズ」を作りたがり、その上で「誰がどのカテゴリーにいて優劣はどうか」と一先ず確認して、安心したがるという、ちょっと幼稚で本能的な側面である。

 大抵の雑なカテゴライズで、押しなべて「嫌な気持ちにさせる人は好ましくない。そんなことではモテない。根暗は社会が受け付けない。」などと人や事態を批評している。一見してとても分かりやすい定義だが、だからこそ多くの人が安易に信奉に陥って行くのではないだろうか。

 やれやれ、そんなに単純な切り口で人を定義できるものかと。あまつさえ無謀なバカばかりの社会で良いのかよと、おっさんは思ってしまう。

 ネガティブと人格的評価をいい加減に切り離して考える時ではないだろうか。

 おバカでハッピーな振舞いの人ばかり礼賛し、難しく悩んでいる人、鬱々と思索に耽る人を「ネガティブ=根暗」と単純定義して否定の対象としてしまう。そんな現代の歪な状況によって、問題の放置、無意味なカーストの出現、多様性の消失などが起こっている。

 本来人間は色々な側面を持っていて、それらが集まって多面的に役割を果たす集団のはずだ。
 裏と表、陰と陽、静と動、これらが斑のように入り組んで混じり合い、それぞれの役割を果たしながら集団を形成しているのが人間社会の本質である。

 故に繰り返すが、

ネガティブとされる人もまた役割に過ぎない

 のだとおっさんは思う。

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