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彷徨うおっさん128 それでも政治に興味が持てない? いや、持って欲しい(前編)
前回までで、2回+2回の合計4回に渡って、政治参画せよとの啓発、だれに投票するかの決め方(おっさんの自論)について述べてきた。
今回は更に踏み込んで、それでも政治に興味が持てないという人に対して、思う所を述べたいと思う。
<政治を避ける人>
繰り返しになるが「日本では政治の話はタブー」とされて久しい。色々経て少しづつ変わってきているものの、現在もその格言的な一言だけで、政治を避け続けている有権者が多い。
なんでその一言にいつまでも引っ張られるのだろうと色々話を訊いてみると、以下のような言葉が返ってきた。
① 政治は怖い・汚い
② (政党や政治家の)信者になったわけではない
③ 話をすると波風が立つ
因みに「どうせ変わらないし面倒くさい」が大半であったが、それは今回は置こう。分かり切っているので。
では一つづつ見ていきたい。
<① 政治は怖い・汚い>
根も葉もない陰謀論も多いが、それでも政治というものは、他者の人生を奪ったり、対立する相手を貶めたりする側面が確かにある。
利権を追求したら叩かれた。ある商売を拡大しようとしたら急に逮捕された。金の扱い方、下半身、家族や昔の知り合いとの不適切な関係といったスキャンダルを掘り起こされてバッシングを受けた。
こういった面が、政治には付き物であり、故に怖い、汚い、だから関わりたくないと考える人が案外多いように思う。
おっさんも同じだ。できれば関わりたくない。
銀河英雄伝説という小説で、ヤンウェンリーという提督が
「私にとって政治権力とは下水処理場のようなものだ。」
と述べていたのを思い出す。
自ら近づきたくないという最良の例えであるが、政治とはいつの世もそんなものなのも知れない。
<それでも政治は必要、そして現在は適切に関われる時代になった>
だが、無ければ無いで困るシステムなのである。
国家集団としての意思決定は必ず必要になる。さもなければならず者国家と変わらず、そこに属する国民は、経済、司法、安全保障といった様々な面で、多大な不利益をこうむることになるだろう。
ならば怖くて汚くても、あと一歩、更にもう一歩と近づいて、最初は遠巻きにでも構わないので、なるべく若いうちに内部を見なければならないだろうとおっさんは思う。
幸いなことに、現在はインターネットによる動画配信、SNSといったオウンドメディアの発達によって、既往のメディアでは知る由もなかった情報が手に入るようになった。
例えば、かつては政治で勝った側ばかりがクローズアップされ、負けた側は完全に世間から干されていたものだが、今はネットを利用して、干された側が真実を暴露したり、再起を謀って別の商売や活動をするといった状況も出てきた。
彼らの全てが正しくて素晴らしいかと言うと、そこまで言うつもりはおっさんもない。だが、少なくとも聞くべきところはあるし、世の中は水戸黄門のような、勧善懲悪のストーリーだけでは絶対に語れない現実であふれかえっていることを、痛感しないわけにはいかない情報である。
無論、この動きに便乗して、再生数のみを稼ごうとするフェイクニュースや、過激な陰謀論がばらまかれ、信奉する人も出てくるのだが、そこを差し引いても、圧倒的に真実が分かるようになった。
結果、政治は怖い・汚いといっても、距離を詰めても大丈夫な範囲も今なら分かるようになった。また、個人が汚物や悪臭を掃う術も得られるようになった。
故に、政治は怖い・汚いといっても、ここにきていよいよ、有権者自らがもう少し主体的に距離を詰め、適切に政治システムを運営し、浄化しなければならない時代になったとおっさんは思う(それが元々の民主主義の理想であるのだし)。
<②(政党や政治家の)信者になったわけではない>
他にも、政治の話をすると、それだけで危ない人扱いする人も、まだまだ多いように思う。これは意識を変えた方が良いように思う
いくら政治の話はタブーであると昔から言われていたとしても、毎度4割弱程度は投票するし、しなくても政治の話題にはメディアで触るのだから、今更政治の話をしたところで、危ないも何もないだろう。
また、その「危ない」の意味が「お前は誰それの信者か気色悪い」といった論調で語られることも多々ある。
これは、新興宗教団体が平気で政治活動をし、時には友人に電話で勧誘や投票をお願いしに来るといった日本の現状を見るに、分からなくもない。
また、宗教でなくとも、過激な人物を熱狂的に信じてついて回る人達という、異様な光景が、案外我々の日常に見え隠れしていることからも、気色悪いという表現は的を射ているようには思う。
確かにこれらカルト的な信仰・思想に基づいた、盲目的、ないし独善的な判断には顔をしかめたくなるが、これらは政治のごく一部の側面ではないだろうか。
ならばこうした動きをけん制するためにも、対立候補として誰かを応援し、活動を阻止する必要がある。となると結局は、政治について真面目に考えなければならないのではないだろうか。
カルトは嫌だ。政治なんてカルトみたいなものだ。確かに非常にまっすぐで分かりやすい反応であり、あながち間違ってもいないのだが、かといって、だから投票しない、政治の話もしない、自分には関係ないとしてしまうのも問題の放置ではないだろうか。
本件について、無暗に比喩は使いたくないが、例えばゴミ出しの日に、ごみを出さず、風水がどうとか言って、収拾の無い日に、しかも妙な色の中身が見えないごみ袋をごみ捨て場に置く人が近所いたとしよう。
お隣さんとしてそれは不愉快な気持ちにならないだろうか。また、張り紙をするなどして注意喚起をするも、それが何度も続いて改まらない、自治体も回収してくれないので困っているとする。それでも指をくわえて見ているのだろうか。
結局、排除したいと思う妙な信仰や、迷惑な政治活動を黙らせるためにも、有権者としては政治に向き合う必要がある。信者は気持ち悪い、信者は嫌だで終わらせるべきではないだろう。