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彷徨うおっさん82 満点主義の日本(1/7) 満点主義は成果ではなくやってる感で人を評価する

 テストで満点を取ったことがあるという人はどれくらいいるだろうか?

 小学校や中学校の途中ぐらいまでは、人によっては満点も割とあったと思うが、いくら成績上位の人でも、高校に入るとさすがに、テストで満点を取ること自体、いつしか普通は無理というレギュレーションになっていったと思う。

 資格試験でも、大学でも、一生懸命勉強したからと言って、満点を取れる状況はそうそう無い。

 現実の仕事もそうだろう。例えば事務作業で、十枚近い書類を手作業で何時間もかけて作ったとして、一発で完ぺきに仕上げるなんて無理に思う。
 長い文章を入力していれば、誤字脱字、変換ミスも多少はある。小さな書類1枚にしたって、何度も何度も何度もチェックしてようやく提出しても、大概どこか誤字脱字があったり、上のお気に召さない処理方法だったのでやり直しなんてこともあるものだ。

 にもかかわらずわが国では、そんな仕事でも、常に満点を取ることを目指して仕事をせよと言われることが多いように思う。

 2位じゃダメなんですかと言ったら間抜けに聞こえてしまうが、それでも、どうでもいいところのミスは大目に見るか、自動化簡略化して人の手から解放したいとおっさんは常々思うところだ。

 今回は、満点主義の日本と題して、日本があらゆる面で満点を求める思想であるため、非効率で皆が疲れ切っていること。
 そして、現状の満点主義を望まないおっさんが考える、どうしたらよいかの考察を述べたい。

<完璧にやる「やってる感」のみを重視しすぎていて危うい現代>


 事務処理がいい例だが、僅かでも誤りや解釈の違いがあると指摘して細々と修正させ、仕上がったものは一点の曇りもない、或いは完璧に上司のお気に召す状態を目指すきらいがある。

 無論ミスはミスであるが、なぜ「人」に「完璧」を求める「満点主義」が横行するのか、どうにも違和感しかない。


 ケアレスミス対策であれば、機械で自動化すれば良いし、それ以前に合理的に簡略化すればいい。

 そもそも必要のない事務仕事自体多いのだ。

 人が手動でゴリゴリ事務処理していて、その「やってる感」だけ見て、良いの悪いの、ちゃんと仕事しているの怠けてるのと、言ってばかりではなかろうか。

 仕事の中身よりも、やる気があるか、センスは上司と合っているか、ずっと机に向かっているか、そうした態度が良し悪しを見せつける、完全にご機嫌取りの感情労働になっている。

 この有様は満点主義の心情から生まれるような気がしてならない。

 どうひっくり返ってもミスの温床でしかない無駄仕事をわざわざ設定し、それをいつまでも人力で、しかも完璧に仕上げることに、組織で血道を上げて実行している。

 ケアレスミスを許さないなら自動化すれば良いのに、わざと誰かがミスする仕組みを作って、ケアレスミスをするかしないかの無駄な勝負をしているように思う。


 現代の満点主義の労働は誠にここが滑稽である。

 一方で業績にもろに関わる仕事には値段が振られていて、お安く外注されていく。これもまた満点主義的発想を招く。どういうことかというと、例えば建物や機械の修理について、安く請け負うと損失1回でバカにならないため、請負先もノーミスにせざるを得ない。つまり満点主義になる。

 また、何かの理由でやり直しさせられるとこれも損失になるので、ピッカピカにして、文句のつけようのない仕上がりにする。これも満点主義だ。

 そしてこの無理のあるレギュレーションによって、満点主義の実行が困難になると、逆に一挙に手抜きや劣悪部品の使用に走るところもある。発注者がド素人ならば尚更平気でだましてくるようになる。

 最近は古くからの職人は引退し、薄給で世知辛くなってきたので、後者のパターンが増えてきたようにも思う。酷い弊害だ。

 無駄仕事もまた、処理精度、処理速度、職務態度の3項目だけで、ほぼ成績の良し悪しまで決めてしまう。修理工事と同様に、益々ミスしてはならないという意識ばかりが高くなって満点主義に帰結。
 サービス残業してまで完璧に仕上げるか、怒られるの覚悟で適当に仕事をするかの二択を招いている。
 そしてどちらの結末も、社員の離職や汚職のリスクを高めている。

繰り返すが、酷い弊害だ。


こんな世界が今の日本のように思う。
やれやれ、ここまで執筆しただけでため息が出てきた。

次回に続く

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