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彷徨うおっさん83 満点主義の日本(2/7) 勉強で満点を狙ったことなんてあまりないだろう なぜならば。。。
前回は、「人」に「完璧」を求める「満点主義」、そして満点主義に迎合できたかどうかの「態度」のみで人の優劣を決し、結果、現場が満点主義で疲弊するか、満点主義を諦めて現場が投げやりになるかの二択に陥るという弊害について述べた。
今回は、お勉強における満点主義について、少々述べたいと思う。
<お勉強における満点主義>
さて世の中が酷い満点主義でも、学生の頃から満点主義だったかというとそうでもないように思う。
もし、お勉強というものが、楽しくて仕方がなく、満点を目指すことに高いモチベーションがある。或いは、お勉強大会の1位入賞を目指して、ストイックに満点を目指してお勉強するというパターンであれば、満点主義になっていくのは当然であると思う。
しかしながら、そのモチベーションや目的でお勉強している人はほとんどいない。
数学オリンピックに出場して、チャンピオンを目指すような勉強ならともかく、おっさんのような多くの凡庸な労働者にとっての勉強は、ミスを織り込み済みのもっと合理的なものと思う。
グダグダと80近い資格を取得してきたおっさんも、勉強はそこそこ好きであるが、それでも満点を目指した勉強をすることは珍しい。上位資格受験前の下位資格で腕試しといった状況ぐらいだ。
上位資格で満点を取ろうと頑張っても、名誉も、努力に見合う満足も得られやしないのだから。
大半の学徒というものは、一定の知識とそれに裏付けられた判断力を養うため、問題解決法や異なる観点を得る切っ掛け、人によっては人脈などを得るために勉強していると思う。
これらの動機だと、そもそも教科書の隅から隅まで覚え抜くことが目的にはなることはまずない。
<学問で満点を取る意味は限られてくる>
学習の段階の踏み方も、先ずは試験の出題範囲をさっくり把握して、効率よく得点できる箇所から勉強し、覚えにくい場所は自分の興味や専門に引っかけて暗記を勧めていく。
なんとか得点力が付いて資格が取れたら、今度は業務を通じて不足していた細かい知識や経験を徐々に埋めていく。
そうして仕事ができるようになった後に、尚、知りたいことや興味が湧く何かがあれば、或いは専門家としての強い矜持があれば、さらに学習を探めていく。これが正しい段階の踏み方だと思う。
実務上も、趣味上も、教科書の隅の小さな文字列まで完璧に覚えようと勉強していたら、全く前に進めずに、得ようとしていた能力や切っ掛け、称号獲得による人脈形成が遅れる一方である。
また、試験は通常、たった一人を選抜するために開催されることは稀である。そして試験を通じて一定水準以上であることの証明が成されれば、合格者のトップも最下位も価値はほぼ変わらないのが普通だ。
特待生になれたり、個人名と順位得点まで公開されて、それによって何らかの選抜や名誉などのボーナスが得られることも時にはあるが、通常は満点を狙う事の大変さに見合う何かは得られれない。
満点を取る意味はない。
逆に言えば、どんなお勉強にも明らかに落としどころ「最適点」がある。
多くの人はなにかしらの勉強と試験を経て現在の立場に居るだろうから、満点の無意味さや最適点ついて、身に染みて理解していると思う。
だがどうにも社会人になると、諸事情によって満点主義に苛まれ、ある意味学問の無意味さと、世間の理不尽さばかり感じるようになるのではなかろうか。
そうしたむなしさを生み出さないためにも、やはり世の中に蔓延する満点主義は否定すべきところだとおっさんは思う。
次回に続く