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1ヶ月振り返り9 自分で自分を追い詰めることで泥沼化するのが人間なのかもしれない だから無闇に誰かを追い詰めてはいけない

 投稿数は間もなく300になろうとしている。また、お陰様でスキの数が1000を記録し、書きたいこと、ネガティブなことを自由に書いている割にはそれなりに御支持を頂けていることを毎日嬉しく感じている。

<試験などに挑む日々で改めて思う、人が人を追い詰めること>

 4、5月からぼちぼち進めてきた第二種電気主任技術者試験の勉強を、7月の後半から徐々に本腰を入れ、今月に入っては特に集中して電験一筋で頑張る状態に至っている。note365日チャレンジと並行してであるので、8月の頭で記事のストックを終え、振り返りの時、ふと思いついた時を除いて、ストックでこなすようになった。

 だがそれでも第二種電気主任技術者の試験勉強はかなり時間を喰いストレスだ。

 解いても解いても計算ミスや無理解を痛感しながらになる。無論繰り返しているうちに上達はしてくるのだが、完全記述式の高難易度試験に、実質初めて本気で挑む状況で、しかも今年中に決めたいという想いもある。難しくて、手探りの感覚で、欲張らざるを得ないというのは、中年男性には結構きつい。

きついのに何故挑むのだろう。


 確かに素晴らしい価値のある資格の一つではあるが、おっさんの年齢や現状を鑑みるに、取得したところで特に待遇が良くなるわけでもなく、これ以上何か上等なことができるようになる見込みも少ないと分かっている。あえて意味を問うてもどうしても止められ無いのは、そこに暗く乾いた想いがあるからだとおっさんは思っている。今日はその話をやや取り留めもなく語りたい。

<運命を変えようとした日々>

 暗く乾いた想いとは。おっさんの、おっさんになる以前の若かりし頃の己を追い詰めた(追い詰めざるを得なかった)数多くの事象それらのことである。

 例えば一旦退職してからの地方公務員上級試験。2ヶ月でケリがついたが、就職氷河期での一旦の離職は、若い時分には死ぬ想いだった。そんなチャレンジへの怖さは、暗く乾いた過去として今も残っている。リスクへの強いストレス、ノーマルな自分への限界という乾いた想いも燻り続けている。

 住宅ローンの短期完済へのチャレンジも、一度は資産運用に失敗して負債を大量に抱え、自殺がよぎったこともある。なんとかほぼトントンまで挽回して撤退したが、その後もこの手段に味を占め、何かの喪失のきっかけで復帰してはちょぼちょぼ負けている。
 辞めればいいのに、完全引退した現在でも、無為に金を失うのが関の山である不健全な手段を、それでもなんとか再利用できないかと思い続け、暗く乾いた想いは燻る。

 家庭構築の失敗は、生まれた家庭、作ろうとした家庭両方とも失敗している。時代のせいにすれば簡単ではある。だが婚活は30代前半できっかりやめたとはいえ、その後も交際がなかったわけでも、ワンナイトがなかったわけでもない。完全には抜け切れないのだ。老いても尚残る性欲や寂しさと共に、やはり己の中に、暖かい家庭を手に入れたい気持ちは今も燻り続けている。家族や女性への数々のトラウマと抱合せに。

 30歳になってからのやりたいこと探しでは、公認会計士試験を受験し、挫折している。やりたいことを仕事にできれば、失われた欠片も取り戻せるかもしれない。そう思って色々チャレンジしている人も多いと思う。若い時分なら悪い事とは言わない。だが、運命を変えるのは容易なことではない。幾度かの転職のチャレンジと挫折など、数え切れない程の失敗を繰り返して、おっさんが得たのは結局「想いの成仏」という達観のみであった。それも良しではあるが、その達観のために失われた若さと時間は永遠に戻らない(達観は悪くはないし重要な極地だが、これが正解だと言えるほど人生単純でもないのだ)。

 かくも毎度痛感してきたことであるが、自分自身を無理に追い詰めることで、否応も無く己に色々な傷跡が残り、後の人生でもそれで悩み続けてしまう。


<修復不能な失われた欠片>

 悩みの要因の多くは、色々なものの喪失ではなかっただろうか。おっさんも、金銭や人間関係、時間、若さなどが、ここ15、6年でとてつもない勢いで削れていった。
 辛うじて上手くいった時や、苦境からなんとか這い出せた時もあったが、人生で二度と修復できない失われた欠片は、この間に数多く生じた。

 そして厄介なことにその欠片は、取り戻せないとわかっていながらも、もがき、どうにかして埋めようと言う心の惰性として残り続けてしまう。強がってポジティブに生きようとしても、やはりそれが人間というものなのだろう。

 欠片を埋める行為は理性的にどう考えてもNGである。絶対に取り戻せないのだから。
 だが強い理性と合理性だけでそれを判断し、失われたことで生じた己の気持ちを無視し続けると、今度は鬱に苛まれる。仕事に手がつかず病院に頼ることになったり、気がつくとモヤモヤして無茶に走ってしまう。そこは理屈ではない。

 ならばそうなる前に可能な限りコントロールしつつ、理性的ではない手慰み(または分の悪い賭け)に過ぎない選択でも良いのでなんとかもがく方が、むしろ理性的ですらあると、おっさんは判断するに至る。なんと言われようと無為に難関資格に挑み続けるように。。。

 結局、自分で自分を追い詰めること、あるいは否応もなく追い詰められたことで、二度と修復できない失われた欠片を抱きつつ、理屈以上のものに流され、人は人生が泥沼化していくのかもしれない。


<泥沼化した人生への処方は、健全とは限らない>


 泥沼化した人生を支えるためには、健全な方法だけでは限界がある。おっさんの例の一つ「無意味な難関資格の取得」はまだマシだが、賭博や喫煙・飲酒、奔放な性行為や、苛烈な消費によってしか埋められないものも存在する(無論おっさんにも別側面でそういう部分は多々ある)。

 失われた修復不可能な欠片の大きさや、その人の主観的な感じ方によるので「ここからは不健全もやむを得ない」という線引きは一概にはできない。だが、人間である以上、清濁合わせ含む選択が最適になることも多い。そこが人生泥沼化の避けようのない要因になってしまっても。

 立派に見える人の中には、金銭、人間関係、時間、若さなどはある種の執着でもあり、例えば断捨離によって解決することで前に進めると称する人もいる。
 だが、全員が全部、そうした健全な方法を選ぶことは不可能だろう。
 無論、一理あり、選べる限りは健全な手段を選んでも良いと思うが、健全な方法であるにせよ、不健全な方法であるにせよ、まずは遅滞なく失われた欠片と正しく向き合うことそのものが人生にとって必要な日々の一手となる
 そうなると、喪失体験・泥沼化する人生をなんとか継続するために、新たな高いストレスと、新たに修復不可能な欠片とを生じてしまう結果になることも、ままあると折り込むべしだろう。 


<喪失体験は大人になるための条件ではあるが、肯定はできない>

 おっさんも「想いの成仏」と称して、一部健全な方法をやり尽くして達観できた事もまた多くある。そして、その部分については自他共に大人の自分と認識できている。大人になるためには、試練としての喪失と、健全な方法での努力と積み重ねによる達観が必要であるのだろう。

 だが、述べてきたように、全てが健全な方法での解決とはならない。故に、喪失体験も程々にしないと、いずれ己が維持できなくなるように思う。


 特に「理不尽」に個人が失い続けることは、理性では解決できないような泥沼化する人生の局面を無為に拡大させてしまう。

 だから軽々しく喪失体験を肯定し、誰かの大切なものを喪失させるべきではない。これが前提である。

 昔の日本人は「若い時の苦労は買ってでもせよ」などと嘯き、若者に鞭を振るっていたものだが、この言葉も、本当に苦労した、理不尽な死ぬような想いを味わった人にしか分からないように思う。そして分かってるなら軽々しくは使えない言葉にもなる。

<大人になるのではなく、大人として振る舞う事を伝えるのが教育ではないのか>

 では大人になるための教育とはなんであろうか。

 自ら喪失しなくとも、人は人を見て、大人のように振る舞うことだけはできるだろうとおっさんは思う。概ねそれで良いのではなかろうか。


 大人びた振る舞いができる人は、喪失しなくても人間として健全な魅力が宿るし、いざ当人が喪失の憂き目にあった時も、しなやかに大人になれるように思う。

 例えば、人のものを盗んではいけない。ルールではなく大人として
 例えば、立ち振る舞いや他者との接し方は、美しくなければいけない。ルールではなく大人として
 例えば、感情を必要以上に震わせてはいけない。ルールではなく大人として

 このようにあらゆる場面で、「大人ならどう判断するか」と考える習慣をつけ、その習慣に違和感がなければそれで十分なのではないだろうか。

 こういった教えは、仏教などの宗教が一部が保存し、実践的に伝えてきたものでもあったが、最近は不完全な啓蒙書や、オカルト同然のトンデモメソッドが並んでいて嘆かわしい。
 また僧侶ならまだしも、通常の人生を歩もうとする多くの民衆(信徒に当たる人)は、自ら進んで喪失体験などしたら通常の人生が遠のく。
 まして僧侶としての人生を経ずに、上澄みの思想にだけかぶれて、他者に喪失を強いることなど、あってはならない。そんなものは教育でもなんでもない。

 よって繰り返すが、軽々しく喪失体験を肯定し、誰かの大切なものを喪失させるべきではない。

 喪失体験を経た人間は他者に優しいことが多い。辛い体験から、相手が傷つくことは避けるだろうし、感情も穏やかになる。
 要は大人を自然と体現できているわけだが、彼らに意識して近づけるだけだって十分良いではないか。

 地獄を味わい、そこから這い上がり、得たものと失った物を、人生泥沼化するまで天秤にかけて追い詰め、暗く乾いた内面を持とうとする。それは、全員やる必要は無いし、まして軽々に他者をその果てに追い込むのは残酷ですらある。

 今日も取り留めもなく記述したが、おっさんが頑張る意味も、それを鼻に掛けるつもりもなく、逆に揶揄をなんとも思わないのも、概ねこうした思想と、基なる体験によるものである。

<最後に記事の振り返り、ほぼ政治のあの件>


 斎藤元彦知事に関する記事を7回分も書いた。こんな人がついに首長にまでなってしまう世界になった現状に、大きな危機感を感じている。

 理屈の上では証拠が出てきていないとか、マニフェストは殆ど果たしたとか、港湾利権に手を出して叩かれているとか、妙な話が飛び交って擁護者が現れているが、この動きにも危機感を感じる。以下のような事実があるのに

・道義的責任が分からない人物である
・公益通報絡みで処分を急ぎすぎたことが明白であるのに誤りを認めない
・質問が噛み合わない、または明らかに不誠実(イエスノーで答えろと言ってもグダグダと曖昧に濁したり先延ばしにする)
・証拠はないけどだったらなぜ人が死ぬのか、利権なんてほとんど関係のない多くの下っ端の職員が直接または間接的な被害を主張しているのか、その辺りがいまだにしっくりこない
・元副知事ら牛タンクラブは証拠も含めて明らかにまずい
・1枚の付箋を強い想いも抱いて投げたなどと、事実を矮小化するかのうような言い回しが目立つ
・議会全会一致で不信任案で、しかも理由に「資質にかける旨」が明記されている
・擁護者はいるが、それ以上に非常に沢山の不支持者が有権者に広がっている

 これでも擁護するのだろうか。

 しかも当人も、不信任を食らって失職を選択した状態で、いまだに続投を言い続けている。以下の言葉で

「選挙での県民の負託」
「(あるのかどうか分からない)励ましの言葉」
「改革の必要性」
「仕事で責任を果たす」

どれも尤もらしいくて、選挙で有権者を騙しやすい言葉だ。
 方々で信頼を失くし、少数意見を誇張して語り、改革といえば聞こえがよいと思って言葉を繰り返し、チームワークゼロ状態での仕事に疑問が残る状態であるのだが、やはり響く人には響いてしまうのだろう。

 最初の話に戻るが、

軽々しく人を追い詰めるような人を信任してはいけない。

今後もこの手の、人間性や社会に係る重大な事象は、どんどんnoteしたいと思う。

 


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