彷徨うおっさん158 若い人は何故啓蒙書が好きなのか(1/6)
■ 若い人は特に啓蒙書を好むように思うが
早起きの習慣、速読速聴、夢をかなえる思考、前向きな云々等々。さもなくば一世を風靡した経営者や起業家、タレントなどによる啓発本、思想書などが人気を集めている。
しかし大変失礼ながら、それらの多くはあまり効力が無いか、読者の生き方や性質に合わないか、むしろ有害なメソッドすら多分にあると思う。
人間は我々が思う以上に多様であり、一方で啓蒙書を出す社長やテレビタレントなどはかなり特殊な部類の人種である。ごく普通の人達が各々の性質や生き方を模索する上で参考になるかと言うと、いささか無理があるのではないだろうか。
しかもそれらを、誰にでも分かりやすくて単純なメソッドに置換えた啓蒙書は著者の経験の上澄みの上澄みでしかない。
著者の背景にある、著書では明かされない野望、闇、飢え、どす黒い欲望や性癖まで含めて読み取らなければ、本質をつかむことは不可能ではなかろうか。
通常、啓蒙書の多くはそこまでは語らないし書ききれない。結局は「思想や生き方ではなく」「枝葉末節のメソッド」になってしまうように思う。
■ 啓蒙書の持つ宗教的な熱気
しかしこのような事を説いて聞かせようとしても中々伝わらないようにも思う。翻って自身の若かりし日はどうだったかというと、やはり色々と試している途上にあったし、人生達観するには時間も情熱も余り過ぎていた。
今現在若者である人達も、きっと同じだろう。つまり、啓蒙書の良し悪しを聞いても結局は「やってみなければ分からない」という段階だ。年配者としては疑問や心配を抱いても、否定批判はほどほどにもなる。
また、彼らの信奉する啓蒙書を否定すると、彼らは指針を失って迷ったり、立ち止まってしまう場合もあるようだ。
その時の不安や焦燥によって、
「あなたの意見は誰のどの流派のものか」
「それでは結局やりたいことが叶わない」
等と問答が始まってしまうことすらある。さながら宗教や政治での意見対立のようだ。
同じ若者どうしの意見対立ならば、どちらに熱を費やすかで終わるかもしれないが、熱の冷めたおじさん世代が同様の反対意見を言うと、若い人は内心「夢破れた中年」「負け犬の遠吠え」「老害の常識論」ぐらいに思うかもしれない。
チャレンジは若者の特権ではあるが、無理して死地に赴く者や、騙されてやりがい搾取される者、周りが見えずに暴走している者について、自重を促したいだけでもあるのだが、こうなると肩をすくめるしかない。
だがこれだけは言っておきたい、
啓蒙書はある種の熱を帯びた特殊な書籍であると感じないわけにはいかない。
次回に続く