彷徨うおっさん167 視野狭窄の若者(中編)
前回より「視野狭窄の若者」と題して、接客中に帽子をかぶったままの若者の例と、昨今の指導の難しさ、そして指導が響かない理由としての、若者側の思考パターンとして、
① 根拠のない自信
② 理屈主義
③ 目先の損得勘定を重視する
これら3つがあるのではないかというおっさんの自論を述べた。
今回はその続きとして、①~③の詳述をしていきたいと思う。
■ ①根拠のない自信
現代に限らず、昔から、若い時期にある種の万能感を抱いて、大言を吐いたり、無茶をする人は割と居たと思う。
おっさんも恥ずかしながらそういう面が過去あったことを白状するが、これは経験不足に伴う「無知の蛮勇」ではないだろうか。
社会の仕組みにしても、人間関係にしても、組織や家庭運営の難しさにしても、若い人は概ね経験不足である。
昔ほどではないにしても、少しは周囲の大人の言や、社会の慣習に沿って行動し、そこから幻の自信を認識するという経験を、若いうちになるべく早く経た方が良いように思う。
尤も、昔よりもそもそもの理不尽や、障害が少ない世の中になっているので、なかなか難しいのだが。。。
■ ②理屈主義
2ちゃんねるの創始者、ひろゆき氏が言ったか言わないか分からないが、若い人でも特に幼い人は論破に走る傾向がある(大人にも居るけども)。
そうでなくとも、ある仕事をするにあたっての明確な理由や、因果関係について一々確認しなければ気が済まないという人が、近年の若い人に増えてきたように思う。昨今はそんな理屈主義が台頭しつつあるのだろうか。
おっさんも理屈を大事にする部分はあるのだが、「理屈ではない事象も多々ある」ことを経験として、肌感覚として弁えているかがやはり大事であると思う。
弁えていないから「理屈を大事にする」のではなく、「理屈主義」「理屈倒れ」になる。
「理屈主義」「理屈倒れ」は当然、若い人程顕著ではある。一方でそんな彼らが大人と向き合う中で、大人が理屈をうまく説明できないと、大人が強く出られない分、途端に大人の言う事を軽視し出すところがあるように思う。ここに大人との溝が生じている。
理屈がなくても、それなりに信頼できる大人の言う
「理屈じゃないんだよ」「いいから体験してみろ」
はひとまず通過しても良いのではないだろうか。
信じて一歩踏み出し、理屈以上の何かを、もっと経験知として得ていく必要はあると思うのだが、これも現代ではなかなか難しい。。。
■ ③ 目先の損得勘定を重視する
理屈主義とも通じるところがあるが、ゆるい若者は目先の損得だけで動くところがある。
その価値観の分かりやすい例として、コスパ、タイパという言葉が近年飛び交っている。
大人もまた、ビジネスで費用対効果を考えたり、自身の自由時間を捻出するために様々な工夫を行うので、コスパ、タイパ問題自体は若者だけの話ではない。
だが、違いはやはり「損得勘定ではない事象も多々ある」ということを、経験として、肌感覚として弁えているかに尽きると思う。
前回の例で言えば、朝のヘアセットの時間を惜しんでそのまま出かけても、帽子をかぶって接客したらタイパが良い、という理屈が考えられるが、一見お得に感じ、その場はやり過ごせたとしても、実はそれ自体が圧倒的に好ましくないことは大人ならハッキリと分かる。
その他にも例えば、
・身だしなみをきちんとする習慣を取り入れる切っ掛けを得る
・自分の流儀よりも、社会の流儀に沿った方が好ましいと即断できる思考回路が芽吹く
・例え多少髪の毛が乱れていたとしても、案外何とかなるという経験
・悪目立ちしてかえってダメだったと思える冷静さ
・ルールをどこまで逸脱可能で、そのルールと自分の価値観との間で、何が本質的に大事かを認識する切っ掛け
こういったものを、恥をかくことで強く意識し、体に染み込ませることすらできる。すなわち損して得とれということだ。
目先の損得勘定で帽子を被る事に終始すると、いつまで経っても小さな損を重ねるだけしかできない。一旦は損してみることが大事であるのだが。。。
■ 成長を阻害する要因たち
このように若者は昔から、多かれ少なかれ①〜③のような性質があるように思う。この根源に「清濁併せ吞む生の体験」「嫌だなと思う出来事の消化吸収」がの不足があるように思う。
その結果、帽子を被る若者の例で言えば、醜形恐怖症かとも思えるぐらい自分の見た目を気にする一方で、社会規範の本質的理解や、対人での好ましい態度、何を優先すべきかの判断力が不足しているといった、チグハグな人間になっているのではなかろうか。
問題は、最近は昔の若者以上にこの発達が遅れている可能性である。
次回に続く