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彷徨うおっさん120 あだ名禁止にして良かったか?(後編) それでもあだ名を使う経験は大事と思う

 前回は、近年あだ名呼びが、小学校などで禁止されるようになったことについて、そのリスクと現状、結局は礼儀と密接な内容であることを述べた。
 後半の今回はその続きとして、あだ名呼びも良いではないかというおっさんの私見を述べたいと思う。

<とはいえ、子供があだ名を使っても別にいいとは思う>


 前回述べたとおり、あだ名呼びのリスクと、禁止する側の想い(確かに子供には難しい&先生も大変)も分からなくはない。
 だが個人的には、子供があだ名を使う事は容認して欲しいとおっさんは思う。

 なぜならば、あだ名を止めたからと言って、子供同士が関わり合いを持つ中で、誰かが誰かを気になって、ちょっかいを出したり、不器用な接し方をしたりと、結果として傷つけ合う状況は変わらないからだ。

 子供は確かに未熟であるので、言葉で相手を傷つけてしまうこともあるだろう。また、繊細なので一度傷つくと反応も大きい。
 そして、その度に子供を叱って教育したり、逆になだめて勇気づける先生の負担も、それは大変だと思う。
 だが、あだ名一つを禁止しても、未熟かつ繊細な子供がそこに居て、あだ名以外の何かでぶつかり合うという状況はなんら変わらない。

<あだ名問題も、学校の持つ機能が取り扱う課題>


 学校には様々な話し合いをする会や、道徳の授業が沢山あるだろう。あだ名の件もそれらを活用して解決していくべき話ではないだろうか。

 むしろあだ名を禁止する事で、子供達から、いずれ使う(或いは出会う)であろうあだ名とどう対峙するか、実践の機会を奪ってしまうのは好ましくない。
 あだ名は数ある人間関係構築法のうちの、一つのテーマに過ぎないのだから、それだけ禁止するのは総合学習として理にかなっていない。

 あだ名に限らず、学校では、授業や話し合いの場でざっくりとした礼儀作法を学ぶことになると思う。
 先生との関係だけではなく、それを同世代でどのように使っていくかは、子供同士の関係でしか育めない。
 あだ名の使用機会を取り上げるという事は、子供時代のボーナス的な、インファイトな関係を失わせ、他人行儀にしすぎて、かえって成長を妨げてしまうようにも思う。 

 子供の頃に、思いっきり本音でぶつかり合ったからこそ、大人時代は良い距離が作れているように思う。


 急に大人になった途端にあだ名が解禁されたとして、どう向き合うか理解できるのだろうかとおっさんは疑問に思っている。

 酷いあだ名で相手の子を泣かせてしまった。或いは、嫌だ嫌だと言っているのに一向に相手が望まないあだ名をやめようとしない子がいる。
 そんな状況は予想できるが、そこも含めて教育でもある。その場で理解できなくても、失敗して怒られて、傷ついて学んで、あるいは間に入った大人が有無を言わせない状況を子供に味わわせるのはある意味大事でもある。
 また、人は経験を経て、子供の頃に頭ごなしに言われていた言葉を後で理解できるようになることもある。

 かくもあらゆる経験は何より大事だと思う。


 あだ名を使う時の形式としての礼儀があり、その礼儀に自らの意思を乗せるという経験が多くの人にはあると思う。
 嫌なあだ名に嫌なあだ名で対抗したなどという子供っぽい喧嘩を経験したこともあると思う。
 だが、それらが無かったら、最悪の場合、今変なあだ名で突然呼ばれても動揺してしまうし、愛おしい人をずっと他人行儀で「さん付け」で呼ぶといった、極端な状況にもなりかねないだろう(取り越し苦労と思いたいが)。

 無論、いまだに忘れられない、あだ名にまつわる嫌な思い出もあるだろう。おっさんにだってある。だが、大人の社会の卑劣さに比べれば何でもないことだ。耐える力も育まれないし、多様性や柔軟性を欠くことにもなるだろう。

 かくも、あだ名について、大人がそれほど過敏になったり、極端に禁止することもないのではないかと思う。

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