マインドコントロールされないために
マインドコントロールされないために 【スマナサーラ長老 書籍】
過去のブログ記事を「NOTE」に移行しました。
マインドコントロールされないために(1)
あなたは今,マインドコントロールされていませんか?
「寒天が健康にいい!」と報道されたら,すぐに寒天が売り切れ,「トマトに脂肪燃焼効果がある」と報じられたとたんに店頭からトマトがなくなる。あなたは大丈夫ですか?
「血液型占い」は単なる占いにすぎないのに(それもあまりにも大雑把すぎる占いなのに),本気で信じ込んでいませんか?
「今年はこの色が流行する」と聞いて,それを行動の基準にしていませんか?
これは古い記事ですが,この度の大震災以前は 「絶対安全」(クリック!) という言葉にマインドコントロールされていませんでしたか?
┗注 [探査機ハヤブサ]の危機管理(これでもか,これでもかという危機の先読みとそれに対する手当)とは正反対ですね。
教育催眠研究会は,このような現状を危惧します。今,巷では,ある占い師にだまされた芸能人のことが話題になっています。「彼女は女占い師にマインドコントロールされているのだ」と。
そういう意味で言うなら,例の芸能人と私たちとは五十歩百歩,私たちだってマインドコントロールされているのです。
そして,それを打破するために,心の仕組みや,人間の「認識」について学んでいこうとするのが教育催眠研究会の活動なのです。
ともすると,テレビの催眠ショーを見た人の中に「催眠って,人をマインドコントロールするものなんでしょ?」などと言う人がいますが,これは逆です。「催眠」や「催眠の手法」を学ぶことによって,マインドコントロールや迷信,偏見を打破していこうというのが私たちのスタンスなのです。
とくに「教育界」においては,この構えは重要です。戦前・戦中の教育などは「マインドコントロール」というよりも「洗脳教育」といえるかもしれません。
さて,「催眠」と「マインドコントロール」を同一視してしまうのも大きな偏見です。
あたりまえのことなのですが,催眠だけで人を自由に操ることは不可能です。とくに催眠性トランスにある人は,心が研ぎ澄まされ,防衛本能も敏感になりますから,かえって「悪意」や「偽善」などを見破りやすくなります。
この稿では詳しいお話しはさけますが,教育催眠研究会では,科学的・合理的な見方・考え方 を追究します。
※ 「催眠って,中島さんのような人をつくること?」と聞かれたので,取り急ぎこの記事を書きました。これに関しては,研修会で勉強しますが,サイト上でもお知らせできることと思います。
マインドコントロールされないために(2)
過去(2009年5月31日)の新聞記事だが,「女性を道連れに電車飛び降り」という見出しが気になった。その内容を読んでみるとますます疑惑が湧いてくるのでした。
以下,過去に書いたブログ記事をそのまま引用します。
【これより引用】
女性を「道連れ」に電車「飛び降り」???
2009年5月31日東京都杉並区永福の京王電鉄井の頭線永福町駅のホームで31日午前9時25分頃、電車を待っていた近くに住む無職女性(59)に男が背後から近づき、いきなり腕を引っ張って一緒に線路上に飛び降りた。女性は腰の骨を折るなど全治2カ月の重傷。警視庁高井戸署は殺人未遂の疑いで男を現行犯逮捕した。
なぜ、このような表現になるのだろうか。確かに、この女性にとっては迷惑千万。とんだ災難で、この男性はそれ相応の謝罪をしなければならないだろう。まかり間違えば命を失っていたかもしれないのだから。
だが、この報道の表現はいかがなものか?
同じ状況を説明するにも、表現の仕方で印象が全く違ってくる。
状況としては、酔っぱらいの男性が、よろめいて、転びかけた拍子に、(咄嗟に)たまたま近くにいた女性にしがみついてしまい、あわれもろともに線路の上に落ちてしまった・・・ということだろう。
酔っぱらいでなくても、たとえば電車やボートなどが突然揺れたりしたら、思わず反射的に何かにしがみついてしまうことがある。すぐそばに人がいたら、反射的にサッと手が出て、腕とか服をつかんでしまうことがあるかもしれないし。何か他のもの、たとえば「柱」のように動かないものならいいが、不安定なもの でも、危険な物でも、やみくもにつかんでしまうに違いない。
この場合、「相手は男か女か? 子供か大人か? 屈強な人か弱々しい人か?(いっしょに倒れてしまうほど不安定か)」などと考えている余裕はない。よろめく瞬間に手が勝手に出てしまうのだ。
おそらく、この男性も、酔っぱらっていたせいで、ふいに重心を失い、ぐらついたところ、たまたまそばにいた女性に、思わず手がのびて腕をつかんでしまっ たのだろう。女性にしてもふいのことだから、たまったものではなく、二人とも重心を失ってもろともに線路上に倒れ込んだというのが真相ではないか。
いくらなんでも、なんの脈略もなく、ある日ある時突然に、見も知らぬ女性と「心中するのだ!」という衝動が起こり、「発作的に」行動におよぶ・・・などということはあり得ない。ましてや「殺人未遂」とは?????
(「発作的」などという言葉も、かつてはマスコミの常套句だったような気がする。)
それなのに、女性を「道連れに」だとか、「一緒に飛び降りた」だとか、新聞報道もテレビ・ラジオのニュースも扇情的すぎる。報道も低俗的になったものだ。
とはいっても、この男性、相当反省しなければならないし、それ相応の賠償も必要になってくるのはいうまでもない。
こんなニュースを聞くと、めっきりアルコールに弱くなった私は、溝に落ちたり、線路に落ちたりしないかという恐怖で、酒もおちおち飲んでられないが、報道の品位も地に落ちたなあと思う。
【引用おわり】
この場合,事実は,
(1)男性が,駅のホームから線路上に転落した。
(2)男性は転落する際に,女性の腕を引っぱった。
(3)女性も転落した。
(4)男性は酔っ払っていた。
ということである。この事実をもとに,記者が「作文」をしたわけだ。
でも,新聞の報道って,こんな作文でいいのだろうか? またこれを「鵜呑み」にする読者もこれでいいのだろうか?
私のブログを見て感想を寄せてくれた読者がいる。
あらあら・・・・・・
そういうことだったんですか・・・
昨日,新聞を読んだときにはやはり自殺志願者か,よほどストレスが溜まっていて
見知らぬ人に対しての発作的な態度かと思っていました・・・
今朝の新聞にはその件に関してはもう何も記されていません
これでは真実の出来事を何処で手に入れたらよいのでしょう?
ペンの重みを感じます。 (2009年6月2日 05:20)
素直すぎるんです。この新聞記事に対してもそうですが,私のブログに対してもそうです。私のブログの記事は,あくまで「こういう事情も考えられる」というだけのもので,新聞記者の解釈に対抗して私流の解釈を表明したものにすぎないのです。
にもかかわらず上の投稿を見ても「あらあら・・・そういうことだったんですか・・・」というふうに,ブログの記事を「真実」であるかのように受けとめています。(とても素直で,純真なのです)
でも,くどいようですが,「事実」といえるのは上記の(1)~(4)の項目のみです。
このように私たちは,常に「事実」と「勝手な解釈」とを混同してしまうのです。そこまではしかたがないのですが,それに気づかずに「これが事実だ」(真実だ)と思い込んでしまうことが危険なのです。
ちなみに,これよりさらに数日後,この「事件」に関して小さな記事が新聞に掲載されました。やはり,男性は酔っ払って足もとがふらつき,線路に転落しそうになってとっさに女性をつかんでしまったということでした。
でも,読者の関心はもう他に移ってしまっているし,記事も小さすぎるので誰もこの記事を気にとめなかったかもしれません。新聞記事もスクープをねらったり,極端に「読者受け」を意識すると,巷の週刊誌の内容と変わらなくなるもんだなあと気づいたものです。
これはなにも新聞記事だけの話ではありません。私たちの「認識」とは所詮こんなものなのです。
私たちは「事実」や「現象」を五感でキャッチしますが,ただキャッチするだけではなく,キャッチしたとたん瞬時に「解釈」が入ります。この解釈が入ってはじめて「認知」が生まれます。
つまり,私たちが目で見たもの,耳で聞いたもの,舌で味わったもの・・・はすべて,自分の勝手な解釈をまじえた世界です。もっというなら「私自身がつくりあげた世界」なのです。
こういう「作業」は無意識のうちに,「自動的」になされるものなので気がつかないだけです。
だから,私たちがやっている「評価」というものも非常にあやしいものなのです。他者に対する評価も,自己評価も,すべて「事実」とは別の世界のものです。
それは学校の成績でも同じことで,さきの新聞記事が「作文」であったのと同じく,生徒の評価は「担任がつくりあげた世界」を表記したものにすぎないのです。問題はその「私が作り上げた生徒像」を「客観的な事実」と誤認することです。
「A君はこんな人間だ!」と見えるのは事実ですが,それはそのような「A君像」を作り上げ,その枠にあてはめて見るからそう見えるだけのことで,他の人が見たら全く違う評価になることだってあります。
ただ,先生たちは仕事上「採点」や「評価」はしなくてはなりません。でもその際に「その評価はあくまでも私(教師)の主観の世界であり,"事実"ではない」と理解して行うことができるかどうか,というところがポイントです。自己評価もまたしかりです。
このからくりを探るために,次回は「血液型占い」を例にあげて考えてみます。
思考さえも自由にならない ~人間皆バイアスを持っている~ (パティパダー巻頭法話)より引用
「・・・人は事実を語ろうとしても、結局はバイアスが入るのです。色眼鏡で見たものは、正しく見えたとは言えないのです。・・・」
「・・・我々は思考の自由、事実を知る権利を大事にするならば、やるべきことは心からバイアスの基準を捨てることです。自分でバイアスを捨ててしまって、 心を自由にすると、マスコミ・インターネットなどで限りなく流れる如何なるデータであっても、どこまで事実かと発見することができるのです。情報によって 操られることがなくなるのです。マインドコントロールが解除されるのです。バイアスを無くしてはじめて、「理性」のある人間になるのです。・・・」
【過去のあやしい記事】
■ 「松本サリン事件」の河野義行(こうのよしゆき)さんが,マスコミの第一報で犯人扱いされる。
■ 「和歌山毒物カレー事件」で,林眞須美(はやしますみ)容疑者が逮捕され,検察は林被告の罪を立証するために多数の人から事件当日の証言を収集し,それをもとに事件のタイムテーブルを「分刻み,秒刻み」で「完璧に」組み立てた。新聞各社は,それをそのまま詳細に報道した。
マインドコントロールされないために(3)
「血液型占い」について
「血液型占い」は,おそらく我が国で生まれたものでしょう。そして今では,この占いに関する知識が一般人に浸透して,まるで必須一般教養みたいな存在となっています。
伝統的な占いには,「易」や「相学(手相や人相)」などがあり,またヨーロッパなどでは,「星占い」や「タロット占い」などがあります。現代の日本では なぜ「血液型」なのか・・・ということについては,別の稿にゆずりますが,血液型占いは海外では一般的なものではないはずです。
さて,この血液型占いですが,そのシステムはじつに単純で,しかもおおざっぱです。
昔,中学や高校の保健の授業で「クレッチマーの性格類型論」というものを習いましたが,仕組みはあれと同じです。
クレッチマーの分類では,人間を体型によって3つのタイプに分類します。
すなわち,
1.【細長型】分裂気質
2.【肥満型】躁うつ気質
3.【闘士型(筋骨型)】粘着気質
です。
すべての人間を,たった3つのタイプに分けるわけですから,その内容はそれはもうおおざっぱなものになるのは当たり前です。
血液型占いはこれとよく似ていて,こちらは人間のタイプを4つに分類します。
すなわち,
1.【A型】
2.【B型】
3.【AB型】
4.【O型】
の4つです。人間の性格パターンをたった4つに分類するのですから乱暴すぎます。クレッチマーの分類と同じく大まかすぎますよね。
同じ占いでも,『周易』などでは,それなりの思想体系があり,それぞれの「卦」(カ)の説明文(卦辞や爻辞)は含蓄に富み,味わい深いものがあります。すなわち「易」を「占い」として頼るというのではなく「哲学書」として読めば,なかなか面白くて,大昔から現代にいたるまで生き残ってきたことにもうなずくことができます。
一方「血液型占い」には,このような哲学大系は含まれるはずもなく,もちろん血液型と性格を結びつける科学的根拠もなく,いいところはひとつもないように思われます。
それでも,「いやあ血液型占いは当たってるよ-」と言う人が大勢いることに驚かされます。世の中の大多数の人は,ごく簡単に,ころっとマインドコントロールされてしまうものなのかもしれません。
マインドコントロールされている人に,「そんな非科学的なものを信じてるの?」などと言ったら大変。必ず,強い反発を受けます。なにしろマインドコントロールされてしまっているのですから,科学的・合理的な説明や質問は受け付けません。
親切に「それは迷信ですよ」などと言おうものなら,かえってバカにされるか,「変わり者」扱いをされてしまいます。戦時中の「非国民め!」とよく似たパターンですね。
それでは,この人たちはなぜ「当たっている」と感じるのでしょうか。それには,ごく簡単なカラクリがあるのです。
昔「よく当たる」と評判の易者がいたそうです。ある心理学者がこの易者に興味を持ち,何人かのアルバイトを雇って,この易者のところに派遣したそうです。その人たちは見料を払って占いをしてもらいます。
さて,この心理学者はアルバイトの学生から,それぞれ「占い」の内容を報告させます。すると,あることがわかりました。
面白いことに,すべてのアルバイト学生の報告に共通していたのは,占い師が開口一番に発した言葉です。つまり,占いをはじめて,いちばん最初に言う言葉が決まっていたのです。
さて,その占い師は何といったのでしょうか?
わかりますか。
じつは,その占い師は開口一番,
「あなたの家の近くには,川がありますね!」
と言うことにしていたのです。
マインドコントロールされないために(4)
あなたは今,マインドコントロールされていませんか?
じつは,その占い師は開口一番,
「あなたの家の近くには,川がありますね!」
と言うことにしていたのです。
カラクリは簡単です。
「家の近くに川がある」って? だいたい日本では,いたるところに川が流れています。「近く」といえば,まさしく「川沿い」に住んでいる人はもちろん「近く」だと感じるし,1キロ離れていても「ああ,確かに川の近くだな」と感じます。
そこで,この易者のことを何となく信じるようになり,あとはうまい語り口に乗せられてしまうのです。
ポイントは「近く」という,きわめて曖昧な言葉です。
血液型占いが,まさしくこれです。
人間の性格というのは,そんなに単純なものではありません。「几帳面」といっても,いついかなるときもそうであるとは限らないし,「おおらかな性格」だといわれても,つい頭に来て相手を罵倒することがないとも限らない。
人生いろんな場面にでくわしますので,「社交的」に振る舞うこともあれば,「自己中心的」な面が前面に出る場合もあります。(だいたい,人間はみな自己中心的なのです)
「○○型の人は,面倒見がよい」などといわれると,「なるほど,当たっている」と思うのは当たり前。そういう場面を取り上げて「当たってる」と思うのだから。小川が,家から100メートルさきに流れていても「近くに川がある」と感じることもできるし,1キロさきに一級河川があると,やはり「うちは川に近い」と感じることもあります。「几帳面」だとか「積極的」だとか「協調性がある」などといわれても,きわめて曖昧で,そもそも人間である以上,いろんな面 をもっているのが当たり前です。ある一場面だけをとらえれば,「当たっている」ことになるのです。
たまに,ある人の言動や,その人のイメージがあまりに「血液型占い」の分類に反すると感じることがあると,「あの人は例外だな」と除外して考えます。 (実際にそういう人がいました)。いくら曖昧にとらえようとしても血液型占いの範疇から大きく外れているように見える場合には,「あの人は例外だ」という ことにします。こう考えることによって「血液型占い」は盤石です。「血液型占いは正しいのだが,あの人の方が規格からはずれている」と考えるのです。ということで「血液型占い」を信じ込んでいる人にとっては,いついかなる時も「血液型占いは,当たっている」なのです。
これこそマインドコントロールの特徴ではありませんか?「はずれることのない占い」が本当に存在するのでしょうか?
ここまで説明しても,たいていの人は頑としてゆずりません。「だって実際に当たっているのだから」と,血液型占いの非科学性を説く人を「ばか者」呼ばわりします。まさに「病膏肓に入る」で,完全にマインドコントロールされた状態です。
つづく
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