八丈島の海と戒名

#わたしと海

 人が亡くなると、お墓のある菩提寺のご住職は生前の『人と成り』を家族から聴き取りしながら戒名を授けてくれる。父が亡くなり、その5年後に亡くなった母の位牌にはそれぞれ『海』の文字が入っている。両親を語るには『海』は2人の大切な思い出の場所だったからだ。
 今から55年前、丸の内のOLだった母は失恋の痛手から環境を変えようと会社を退職し、東京都の離れ島、八丈島の観光ホテルに住み込みの事務員として再出発した。空いた時間でシュノーケリングを楽しみ、八丈島の澄んだ海は母の傷ついた心を癒してくれていた。
 母の事務所に頻繁に出入りをしていた男性従業員がいた。なんだか偉そうな口ぶりでいけすかない嫌いなタイプ、母のルームメイトのまきちゃんの彼氏で、その観光ホテルの板長を勤めていた男性だった。母は同室のまきちゃんが彼氏の浮気癖に泣かされていたこともあり、その生意気な板長をとても毛嫌いしていた。
その独身時代の母が毛嫌いしていた男性が、私の父となる人で、何故、2人が結婚したのか、まきちゃんはどうしたのか、生前の母に何度聞いても覚えていない、という惚けた回答しか得られなかった。
 私の幼い頃、布団で寝ていたはずが目覚めるとさざめく海の音と砂浜だったことがあり、日の出の美しい海から上がって来た両親をぼんやりと覚えている。父の仕事が本土となり私が7歳の時に八丈島を離れたが、両親にとって八丈島の海が2人を出会わせ、家族を作った大切な場所だからこそ位牌に刻まれた『海』は2人の人と成りを表すのに、それ以上の文字はないはずだ。
 いつか父と母の位牌を持って、八丈島に帰ろうと思う。海に溶けた両親の、楽しそうな顔を見たいから。



 

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