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母の二度目の結婚相手は、一度目に結婚した父でした

母は、離婚から10年後に再婚した。
一度別れた父と、二人で婚姻届を持って。



私が中学生の頃、両親は離婚した。
父が多額の借金を背負ってしまったので、やむを得ず離婚せざるを得なかった。
それでもひとつ屋根の下に何も変わらず一緒に住んでいたので、私と弟は離婚してから数ヶ月後に初めて母から言われて知ったのであった。

家を手放すことになって、父とは別々に暮らすことになった。
会うのも一ヶ月に数度ほど。父のゆったりとした空気が私は大好きだったので、顔を見せに来るたびに「学校まで送ってほしい」とわがままを言っては父と二人で話せる時間を無理やりつくった。

それから数年が経って、短大を卒業する頃になった。春休みまっただ中。いつも通りバイトに向かおうとすると弟から着信が入る。



「お父さん、死ぬかもしれない」

出張先のスーパーで倒れたらしい。
重度の脳出血。今は集中治療室。もし一命を取り留めても植物状態は避けられないだろう。

母は一睡もせず、仙台からいわきの病院まで毎日通った。相手は離婚した父だ。
そんな甲斐あってか、父は奇跡的に意識が戻り、高次脳機能障害という記憶障害が残りながらも県内の病院に転院できることになった。転院しても、毎日必ず顔を出す。でもそんな母も、もうとっくに体力と気力の限界は超えていた。離婚している父にそこまでする必要はない、と私や弟は何度も言ったが「お父さんを選んだ私の務めだ」と頑なに曲げることはなかった。だってどう見たって、母はやれるだけのことはやっている。務めは十分に果たしているじゃないか。

容態も安定し、父は実家に戻ってくることになったが、私と弟はすでに上京しており、母と二人三脚での壮絶なリハビリ生活が始まるわけである。

父の高次脳機能障害はこうだった。
・過去の記憶が思い出せない
・進行形のことも記憶できない
・家族の名前や存在は覚えている

過去の記憶は、病気になるまでの人生はもちろん、今の日常すべてもだ。排泄も入浴も一から、数分前のお願いごとも忘れてしまう。離婚したこともわかってない。
何より、性格がまるで違う。喋り方も、表情も、無垢な子どものようだ。穏やかで、こっちの心が洗われてしまう。怒りっぽかった父の面影はどこにもない。ずっとニコニコしている。あの頃の父への憤りや悲しみをぶつけることは二度とできないと思った。目の前にいるのは生まれ変わった父だった。

電話をする度、母の怒鳴り声が聞こえた。このときは、沢山のお菓子を引き出しに隠してこっそり食べていたとのこと。
母はさらに、父のリハビリのために新聞配達を始めた。日中はフルで働いているのに。いつ倒れてもおかしくなかった。



母として生きてきた母は、今までに見たことのない『妻』の姿になっていた。もうこれ以上はやめてと止める私たちを振り切ってまで貫き通した、〈務め〉の二文字に込める30年分の気持ちを、やっと理解できたような気がした。
足りなかった時間を埋めるかのように、お出かけをしたり、腕を組んで歩いてみたり、カレーをつくってもらったことを嬉しそうに話してきたり。きっと色々なことが限界だったはずなのだけれど、母は幸せそうだった。いつも側には父がいた。

そして、お医者さんも信じられないほどに父の後遺症は良くなっていった。
障害者としてアルバイトも始めて、車も運転できるまでになった。祖父の葬儀では、立派に喪主を努めあげた(担当の男性と私とで両サイドでささやき女将みたいな状態になってたけど)。奇跡の連続だった。

母は母で、重度の聴覚障害があるのだけれど、「私たちどこに出かけても割引してもらえるね」なんて冗談を言ったりもしていた。父も笑ってた。




その瞬間は突然だった。神様は無情だ。

父に末期がんが発覚した。
消化管間質腫瘍、通称GISTと呼ばれる希少がんだった。



余命一か月。

目の前がなんにも見えなくなりそうだった。
私たちよりも、母のことを考えると胸が張り裂けそうだった。



宣告から、何週間経っただろう。

お母さん、お父さんと再婚します

母は、父を見送りたいと言った。家族として、見送りたいと。
そうして、母は離婚した父と再婚した。


ちょうど母の誕生日だったので、家族みんなで結婚祝いをした。証人はお互いの兄弟にお願いしたらしい。なんだかへらへらしている。
新婚二人のツーショットはなんなら結婚式の写真よりも幸せそうで、れっきとした『夫婦』だった。こんな良い笑顔の夫婦、どこ探してもいないんじゃないかななんて思ったりした。

間もなく父は二度目の脳出血で倒れ、即入院となった。

父は最期まで病気のことは知らなかった。
何度か説明をしたこともあったが、数秒後には忘れてしまう。でもその数秒間の父は泣きそうなほど悲しい顔をする。何回も伝える必要はないと思った。
入院から二か月後、「もう治療はできない」と主治医から通達があった。ついにその日がきた。緩和ケアを提案される。私たちは頷いたが、それでは足りないらしい。父の合意がないと病棟は移れないと言われた。

その立ち会いが一番つらかった。

「もう治療はできませんが、いいですか」
「緩和ケアに移ることを希望しますか」

何もわからない父は、ずっとニコニコしながら先生の話を聞いていた。「いいですか?」と合意のアクションを求められ、首を縦に振る父がいた。わかりました、と先生が微笑んだ。こんなの合意でもなんでもないじゃないか。

それからは、父との毎日をただただ楽しんだ。右半身麻痺、呼吸器が欠かせない生活は、自宅に戻れないことを意味していた。病室に足を運んでは、『ただいま』と『いってきます』をくり返した。ここがホームだった。私や母が泊まる日はベッドの隣に布団を敷くのだけれど、父は嬉しくて嬉しくて遠足前日のごとく眠れなくなるのがお決まりだった。



あっという間の180日。

亡くなる数時間前、いつも通り母の愛情たっぷりの手づくり弁当を一緒に食べた。父は少しずつ弱ってはいたがまだ大丈夫だと言われていた。でも、私は布団を敷きながら、なんとなく、なんとなく今日が最後な気がした。看護師さんは信じてくれなかったが、私にはいつもと違うにおいが父からした。会えなくなるにおいだった。看護師さんに、家族に連絡をしたほうがいいような予感がすると話したが、今夜は心配ないと言われた。もうここにいないような、存在のぼやけた父を見て涙が溢れた。

同じ頃、自宅にいる母も、東京にいる弟も、父の気配を感じていた。看護師さんが慌てるほどに容態は『急変』だったが、二人への連絡は容易に繋がった。覚悟も済んでいた。

その明け方、母は父の手を握り「ありがとう」と言った。
もう意識のないはずの父が、母の手を握り返した。
父は、私たち家族のことをしっかりと見つめたまま、静かに旅立った。


写真を見返して、確信する。
大変だったはずの数年間は、父と母にとって、人生で一番幸せな新婚生活だったに違いない。





病室に通っていた毎日。
記憶がリセットされてしまう父に何十回もされていた質問がある。

「何歳になったの?」

26歳だよ、
と言うと父は決まって目を丸くして

「結婚は?」

夫婦っていいもんだぞ、
と言わんばかりの自慢げな表情で聞いてくる。





去年、30歳になった私に大切な人ができた。
ふとした瞬間に父の声で、またいつもの質問が聞こえる。

お父さん、夫婦っていいもんだね。

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