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他人のことは変えられないとは言うものの・・・
人に何か嫌なことをされた、と言うと、「他人の意識や行動は変えられないから仕方ない。」みたいに言う人がいる。
これは、ある意味正しい指摘だと思うが、解釈によっては自分を苦しめることになりかねない考え方でもある。
他人の発言や行動は変えられない→他人は悪くない→全部自分のせい
少なくとも、このように解釈することだけは避けたい。
とくに人がいい、優しい人ほど、なんでも自分のせいにしてしまいがちだからだ。
他人は変えられない、だからこそ他人の無神経な発言、行動からいかに自分自身を守っていくかが大事である。
実際は誰だって他人に腹を立てたりもする。
結局人間なんて、立場が変わって教えたり、アドバイスする側になると偉そうに〇〇すべきだとか、〇〇してはいけない、と上から目線でものをいう生き物なのだ。
典型は親や教師で、実際に自分が守れてもいないことを平気で子どもに押し付けたりする。まあ、教師だって完璧な人間ではないから仕事上それはやむを得ないことではあるのだけど・・・。
また、「他人の事は変えられない、この人は元々こういう人だと割り切って考えろ。」という人に限って他人にキレたりもする。
人間なんて適当な生き物だ、ということだ。
他人の愚行を許容すべきかどうかは自分で決めていかなければならない
だから、どんな状況であっても他人の発言、行動を容認するという必要はさらさらない。結局、個別の出来事に応じて容認すべきか、ちゃんと相手に伝えるべきか、無視するのか、はたまた逃げるべきか、判断していかなければならない。その判断は、他人が行う事ではなく、自分自身が行う事だ。
実際日々生きていると、明らかに他人に非がある場面が多くある
日々の生活の何気ないところをつぶさに見ていくと、驚くほど人というのは自己中で自分の事しか見えていない。
よく感じるのが歩いている時である。ぶつかるギリギリまで避けず、酷い時はそのままぶつかってくる。だから、いつも自分は反対側から人が歩いてくると少し前にはぶつからないように避けるようにしている。よけるよけないの空気感が私の感覚からすれば、他人は大分無意識に自分中心なのだと感じている。
優しい人は人一倍自分をいたわるべき
また、優しい人はことあるごとに自分のせいにして考えてしまう。
たとえそれが明らかに他人が悪い場合でも、こじつけでも自分に何か非があるのではないかと思ってしまう。私も実はその傾向がある。
しかし、冷静に考えて、ルールやモラルをちゃんと守っていても不快な思いをするというのは、結局全部他人のせいなのだ。
そんなに、自分を責めて思い悩む必要はない。
世の中では、あまり気を使わない人が無意識のうちに自己中な行動をすることで、ちゃんとした人間が嫌な思いをする、ということが多い。
また、ここまで言うと、面倒な奴だな~なんて逆ギレしてくる輩までいる。
しかし、無意識のうちに他人に不快な思いをさせてしまうような気を遣えない人というのは、育ちや家庭環境によりそうなった場合が多い。人にあまり気を使わない人というのは、そもそも親もあまり他人に気を使うような人ではなかったのだろう。
そういう人はそもそも育った環境が違うのだから、まともにやりあっても余計なエネルギーを消耗するだけだ。
どんな時も呼吸を忘れないようにしたい
人に不快な思いをさせられた時、人にプレッシャーを感じる時に忘れがちなのは呼吸だ。
私自身も人から不快な思いをさせられると無意識に呼吸を止めてしまう傾向があることに最近になって気づいた。恐らく、無意識のうちに緊張を感じてしまうことが原因なのではないかと思う。
だから、どんな時も呼吸は忘れないようにしたい。よくストレス状況に陥ると、人はため息をつくがそれは無意識の防衛反応ではないかと思っている。つまり、ため息によって意識的に息を吐いて呼吸を取り戻そうとしているのだ。
だから、とかく対人関係でストレスを感じるときは呼吸を意識して、大袈裟にでもいいので「ふーっ」と息を吐いてみる。
そして意識的に何度か呼吸を繰り返しながら、精神を落ち着かせることが大事だと思う。