480円の代償がデカすぎる
480円をケチった代償が大きくなって帰ってきている。
学校で遠足へ行った。
大人の学校なので解散時間は自由。帰る手段も個人に委ねられている。
わたしは最終バスに乗れる電車で帰った。最寄駅から学校まで、バスで30分、徒歩3時間かかるからだ。
たまたま、学校の最寄駅まで車で来た友達と同じ電車だった。
だからその友達が、駅から学校まで車で乗せてくれることになった。ラッキー。
最寄駅に着いた。
ちょうど車は5人で満員。
運転手の友達にありがとうねーなんて言いながら、他4人の友達と車に乗ろうとしたら、
同じ電車に乗っていた別の友達が来て「わたしも乗れるー?」と聞いた。
すると、もともと車で帰る予定だった1人がサッと「わたしバスで帰るわ!」と立ち去った。
あとから来た子は、もともと5人だったこと、その子が来たことで他の人がバスで帰ることになったことを知らない。
そのかっこよさに尊敬の気持ちを抱き、翌日わたしは、バスで帰った友達にお礼の手紙とほんの少しのプレゼント(お茶一袋)をした。
その人は手紙の内容を喜んでくれて、わたしをいい人だと言った。
でもわたしは、いい人なんかじゃない。
わたしが手紙やお茶を渡したのは、彼女の寛大さへの尊敬よりも、自分の保身だったからだ。
わたしは、バスで帰ってもいいけど、480円のバス代がかかるのちょっと嫌だなーなんて思っていた最悪の人間だ。
それはまだ、かわいいもんだ。
480円をケチった上に、「ありがとう!」と言うことで、どうにか自分の罪悪感を消そうとしていた。
思い出すだけで反吐が出そうだ。
罪悪感を感じる時ほど、人に必要以上に優しくなってしまうのはわたしだけだろうか。いや、優しさではない。ただ、良い顔をしたくなる。わたしはいい人なんだと、思い込みたくなる。
自己嫌悪などではなく、客観的に淡々と、じぶんにしか矢印が向いていないわたしの言動が、心底気持ち悪いと思った。しょんぼりネガティブな気持ちでもなく、やけに冷静な気持ちが、淡々と押し寄せている。
「480円でいいことしたなー」と思える器でありたかった。
ケチった480円で、わたしが得たものってなんだったんだろうか。
この気持ちを忘れちゃいけないような気がして記している。将来、成長したなと笑えるように。
そして罪悪感を感じるときほど、人に優しくすることで自分の罪をなかったことにしようとすることも、ある種人間がしてしまいがちな姿な気がして、覚えておきたいのだ。
まだまだ世の中への信頼が足りていない。信頼は愛から。
大きな愛を熟成させるための修行はつづく。