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「元気」と「色気」の両立は可能かもしれないという希望

色気は「わたしは愛されている、と知っているかどうか」に比例するとおもう。

思考の過程を共有したい。最初、色気があるひととは「愛されていると思っている人・その自信がある人」かな?と考えた。

それもあるが、それだけではない気がした。

ほんまもんの色気を持ち合わせているひとは「他人から愛されている」以上に「自分でも自分のことをちゃんと愛しているひと」だとおもったからだ。

でもそれは、独りよがりな「愛されてる〜!俺!私!」というようなものでもない。

他人からも愛されているし、自分も自分を愛している。そもそも人類・人間という存在は誰しも、人間を超えた大きな存在から愛されていると知っている。

急にスピリチュアルっぽいが、色気のある人は自分に対しての「愛」への土壌があまりにもどっしりして見えること、ない?

だから色気とは「わたしは愛されている、と知っているかどうか」に比例するとおもうのだ。

色気に似たものに、「垢抜け」がある。垢抜けは「他人から愛されている」と実感した時にはじまるものなのかもしれない。

そしてそれが、「他人」だけでなく「自分でも」愛せるようになったとき、色気に昇格するのではなかろうか。

「垢抜けている」が「色気はない」ひとがいたり、顔がきれいでも色気がないひとがいたりするのも、これが理由なのではないかと考える。

無理やりなのはわかっているが、つづけさせてほしい。色気があるひとの象徴といえば、ゆっくりおっとりしゃべる、ミステリアスなどだろうか。

自分は愛されていると知っているからこそ、早く大きな声でしゃべる必要がないし、自分のことをたくさん話したり自己主張したりしないのでは?とおもうのだ。

意外と、愛されるためにがんばっているひとは多い。

たとえば、小さい時に習った

「元気に挨拶をしましょう」
「まじめでありましょう」
「人に優しくしましょう」

は無意識のうちに「しないといけません→しないと価値はありません→価値のない人は愛してもらえません」につながっていないだろうか。

これをしないと愛されない、と潜在的に思っている。だから、がんばってしまう。これが色気を遠ざける。

一方で色気のある彼らは、「愛されるために」を理由に、何かをがんばることはない。それが余裕に映ったり、ギャップになったりするのではないか。

もちろん何かをがんばる努力は否定したくない。なぜなら一番わたしが努力依存症だから。

でも「愛されたい」という欠乏感からくるそれは、ひとにお見通しなのかもしれない。

これまで元気と色気は両立できないとおもってきた。しかし、元気であっても自分を愛していて愛されているという実感があれば、両立はできる。

「愛されるため」に元気でなくちゃいけない!とおもっているのでなければ、色気は出てくる。

色気とは、「わたしは愛されている、と知っているかどうか」
いかがでしょうか、ご査収ください。

そしてわたしのこれからに、乞うご期待。

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数ヶ月前にまとめた「色気」についても念の為。
ただ、この記事の方がお気に入りでございます。


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このつき
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