全員が寂しくて孤独なのだとしたら?
二度目だ、この感覚。
さわがしくて幸せそうなまわりに囲まれて、冷酷なほど客観的でその場にいないわたし。
1回目は、先月帰国したときの飲み会で。大好きなひとたちを集めた、わたし得でしかない時間に思った。2回目は、先週の学校のコンサートで。同窓会のような日で、エモさの象徴みたいな時間に思った。
好きなひとたちに囲まれていて、そのみんなが幸せそうなのと対照に、わたしが無機質に存在する。存在というか、身体だけがそこに取り残されている。そして、幽体離脱をしているようなわたし(離脱側)は思う。
「ひとって、孤独だ」
厳密には、「わたしって、孤独だ」と思う。でもわたしは「ひとはみんな違うし、みんな同じ」ととらえているので、「ひとって孤独なんだな」と演繹法で仮説を置いている。
こんなに楽しくて幸せな時間を共有していても、彼らには彼らの生活がある。それは当たり前のことなのに、それを「寂しい」と考えているわたしがいる。そのことは、ここにいる誰も知らない。その感覚が妙に孤独で、でもみんな孤独だからこそ、共有している今が幸せなんだろうと思った。
これまで、寂しくなる瞬間が一瞬もないように強くならなきゃいけない、と思ってきた。よく、「自分のことは自分で満たせるようになりましょう」っていうし。
でもそれは勘違いだったのかもしれない。たしかに「わたしは寂しくない」と言い聞かせるように、補う行動をするのは苦しい。でも、みんな寂しいのが普通なのだとしたら?「わたしは寂しいからこうする」と言ってもいいし、それはむしろ健全で、色気があることだと思った。
<あとがき>
最近「孤独」について考えるのがブームだし、読み方によっては暗く見える記事ばかりあげているかもしれませんが、病んでるとかではなく、むしろめちゃくちゃ調子がよく、30年生きてきた中の最高に身軽で快く生きてます!