なにもしてない。なにもできない。それでも、幸せでいいのか?
「ありのままで、すばらしい価値がある」みたいな言葉が、どうしても最近しっくりこない。
正直、驚いている。だってひとに「あなたは十分ステキよ」という仕事をしたいと思ってきたし、人生のテーマとさえ信じてきたことだから。だから「ありのままですばらしい」って言うひとを否定したい気持ちは、ほんっとにない。(傷付かないでくださいませ)
相関があるかはわからないけれど、最近驚くほどひとに興味がなくなってきている。もちろん家族や友達には、幸せでいてほしい。けれど、相手はどんな状況か?と考えたり、おせっかいを焼いたりすることがなくなった。これまでなら「大丈夫?」と声をかけていたようなひとを、放っておいている。
自分で言うのも変だけど、これまで言われた褒め言葉ランキング堂々の一位は「気遣いができる」である。そんなわたしが気遣いをやめた。厳密には気遣いはやめてないんだけど、これまで「何とかしなきゃ」って思っていたものが、気にならなくなっている。どうでもいいというか、ドライというか。今はやりたいこともないので、「日々なにをしているの?」と言われたらまじで「生きている」としか答えられない。
仕事でも同じことが起きている。今の職場では、気遣いをやめる前から「わたし、雇われてなにをしているんだ?」と思ってきた。拍車をかけるように気遣いもやめて、ますます「生きている」しかしていない。同僚に比べ、プロジェクトに従事している物理的時間も少ないし、デンマーク語が未熟なので(これは言い訳ですわかってます)生徒との精神的関わりも薄い。
同僚の先生は、人格者たちなので「あなたがいるのといないのじゃ、全然違う!」とか「学校に必要な存在」とか、言ってくれる。それはお世辞じゃないことも知っている。
でも、本当になにもしていないのだ。謙遜でも、自己卑下でもなくて、やけに淡々と「なんもしてねえ」って思っている。
決定打となったのが、校長先生とのミーティング。そこで、わたし以外の全員がほめられた。わたしが休暇をもらっていたときのプロジェクトの話なので、そこに「あなたはなにもやってない」の意図はない。でも「わたしはなにもやっていない」と事実をつきつけられた瞬間だった。
「つきつけられた」とつよめの言葉を使っているけれど、落ち込んではない。むしろみんながほめられたタイミングで「あなたも、十分尽力してくれているからね」みたいな言葉をもらったら、落ち込んでいたかもしれない。「いや、なにもできてないのに」と。
でも本当になにもしてないのだから、「なにもしてないけど、ここにいます」と堂々とせざるを得なくて、それが高じて「なにもしてないけど、生きていますん」と開き直っている。
なにもしてないけれど、生きている。
わたしは無価値なんだけど、それでも別に大丈夫。
最近やたら「おひょひょ〜今日もな〜んにもしなかったなァ!」「あらら〜こんなことも、わたしできないのかァ!」と自分の無力さを思い知るシーンがある。
でも「なにもできてない」と逃げも隠れもせずにその場にいる。プライドと承認欲求だけで生きてきた過去のわたしがその場にいたら、あり得ないほど「プライドズタズタ」だったろうし、あり得ないほど「できてない」状況だとおもう。
とくに10年前のわたしは、それに耐えきれず「あなたはあなたのままで素晴らしい」と言われたかったし、そうだと信じたかったし、だからそうやってひとに言ってまわりたかった。
でも、あなたのままで素晴らしいから、生きていていいんじゃなくて、素晴らしくなくても、生きていていいのかもしれない。だってしょうがないじゃん、なにもできないんだもん。それでも、生きるしかないんだもの。でもそれが完璧なのよね。
結局は、「すごくなくてもいいんだよ(それでもすごいんだから)」は「あなたのままで素晴らしい」と同義なんだけどね。でも今のわたしには「なーんにもすごくない!」って思う方が気楽で、そうだよねと思えている。
まーじーでなにもしてない。
まーじーでなにもできない。
それでも、こんなに幸せに生きている。
つよがりでも、卑屈でもなく本当にそう思っている。
<あとがき>
まーじーでなにもしてない。
まーじーでなにもできない。
それでも、こんなに幸せに生きている。
そんなにありがたいことが、あるだろうか。
そう思いやすいのは、環境のおかげでもあると思うから、本当に感謝している。本当にいつもありがとうございます。