【無料記事】光る私たちへ
有名なこの一節に、少し前に Twitter(X) で触れた。
何かの隠喩というわけではなく、ただ実感を言葉にしたらこうなっただけのことだ。
他愛ない投稿でも、いったん言及したものはしばらく意識に残っていて、後日ふいにまた浮かび上がってくることがある。
そういうわけで、今回は宮沢賢治――しかも『春と修羅』について触れる。
「仮定された有機交流電燈」もしくは「因果交流電燈」の正体が何なのか、たくさんの人が研究していることだろう。仮説もおそらく多くある。
しかし本稿ではそれらを一切参照せず、あくまで筆者の見解のみを記す。
賢治の生涯を紐解いていると、賢治と決別または死別した人々が必ずと言って良いほど現れる。
これらの離別は当然賢治の心を傷つけ、その痛みによって生まれた作品が今でも残っている。
もう会えない人への気持ちをどう整理するか。
人間の普遍的な問題に、賢治もおそらく直面していた。私たちと同じように。
「仮定された有機交流電燈」もしくは「因果交流電燈」とは、その問いに対して賢治が得たひとつの答えなのではないか、と私は思う。
生きている/死んでいる、人である/人ではない。
それらの区分を超えて、あらゆる存在を「仮定された有機交流電燈」もしくは「因果交流電燈」に還元したとき――誤解を承知で言えば「たましい」のレベルで見たとき、一度でもこの地上に存在したことがあるものたちは、みなひとつずつの電燈として見えるのかもしれない。
燈火が消えるように、自分の前からいなくなっていた人々。大切な彼ら。
けれどもほんの少し見方を変えれば、彼らは今もそばにいる。
呼吸するように、笑うように、歩くように、点滅を繰り返しながら。
肉体や人格や思想を離れた場所で見渡すと、もう会えない人たちは「ひとつの青い照明」として存在している。
彼らは今まさに「せはしくせはしく明滅しながら/いかにもたしかにともりつづけ」ていて、そのいきいきとした営みは決して「わたくし」から失われることはない。
愛したすべてが、自分と同じ青い光として、永久の点滅を繰り返しながら、存在する。
そのはるばるとしたうつくしい想像は、少なからず賢治の心を癒したのだと思う。
BGM
Hiroki Chiba / mental sketch modified
賢治についての話はいつか書くだろうと思っていたんですけれど。
どうですかね、先生。
ヘッダ画像:
PexelsでのDavid McEachanによる写真: https://www.pexels.com/ja-jp/photo/91413/
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小説家・此瀬 朔真によるよしなしごと。創作とか日常とか、派手ではないけれど嘘もない、正直な話。流行に乗ることは必要ではなく、大事なのは誠実…