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あらん限りの情熱と

私はよく「温度が高い人」と言われる。

最近はむしろ落ち着いて来た方で、自分なりに活力の燃やし方を考えていたりはするが、それでも基となる情熱みたいなものは20歳の時とそう大差ない。
自分の核にあるこみ上げてくる何か、核とは心と言っても心臓といっても脳といっても良いのかもしれないが、とにかくそういうものが常にある。

そして、この感覚は何なのかについて、色んな分野の専門家に聞いてみたりもした。

ある人は感染といい、ある人は障害といい、ある人は盲目といい、ある人は才能だといった。

しかし、私としては、どれも違う気がする。
生きにくさと抱き合わせのこの感覚を、言語化したとて身をもって理解することはできないのだから。

学問にも色々な語り方がある。学ぶほどに思う事だけれど、どの分野からでも恐らくそれらしい事を見つけることが出来る。それは学問の持つ性質というよりも、学ぶ者の表現者としてのセンスというか、そういう類の資質なのだろう。
一つの学問から万物に通じる何かを見出す人もいれば、様々な分野を掛け合わせて何かを見出す人もいる。そこに序列は存在しない。

そして、この感覚が何なのかは私の中ではおおよそ完結している。それが人に渡せるものでも無いらしいということも。
恐らく、私が聞いた専門家の人の中にも、そう思いながら教えてくれた人もいるのだと思う。ほんの数人だけれども。

持てる限りの知性と情熱をもって、真剣に求め、行動し、切り開いていく生き方こそ、最も尊く、また最も美しい生き方だと私は思う。生まれつきの身分や、素質に関係なく。

私はそういう人をこそ尊敬する。生きることをマラソンに例えるならば、途中の順位ではなく、最後に自分の胸でテープを切った人が最も美しいように。

そのあとにつきまとう人からの評価には、程々に対応していればいい。結局、自分がどうであるかの領域なのだから。

鉄は熱いうちに打てというのだから、冷めた人よりも、打たれる余地があっていい。それくらい心に余白を、余裕を持って毎日の生活を積み重ねていきたい。

私には、そうすることしかできないのだから。

©心瑠華へべれけ