本来在るものを育てる幸せ
「生きていれば辛いこともあるよ」
これはとてもよく聞く言葉であるし、その通りだと思う。誰もが頷くことだろう。
しかし一方で「辛いことがあったとき、どうするのか」については、色々と考えが分かれることだと思う。
ある人は気晴らしをし、ある人は忘れ、ある人は割り切り、ある人は怒り、ある人は嘆く。
何が言いたいかというと、要するに未だ手探りの状態であるわけだ。人が何百年考えても未だ手探りなこの問いに、明確な答えがあろう筈もない。
私はこういう哲学というものを、行動と科学の実学だと思っている。座して考え続けるのは容易いし、実際、哲学にはそういう魅力があると思う。
それを実学に落とし込むという事は、つまり生活に落とし込むということだ。おばあちゃんのポタポタ焼きの裏面みたいな、そんなことである。
今回はそんな事を、ショーペンハウエル(ハウアー)の考えからやってみようと思う。
彼は幸せについて語る中で、一生の多くの部分を生きるため費やしてきた時代から、生きている時間をなんのために活用するか悩む時代へと変化したことを語った上で、現代の「幸せの敵」に名前をつけた。
それは【苦痛の不幸】
この苦しみにあがいていると、欲望の充足が幸福をもたらしてくれるもののように感じられる。
ところが、それは当座の儚い幸せであって、ひとたび満足すれば、泡のように脆く消えてしまう。
そして、次の瞬間には、同じものをもっている他人と自分を比較して、自分の得たものがつまらなく思えてきたり、別の欲望の対象を考え出して、再び苦痛に身を焼くことにもなりかねない。
人である以上、このイタチごっこは避けられないものなのかもしれない。
しかしながら、身近にありすぎて気にもしない中に、この不幸に対応しうるものが確かに存在していると私は思う。
それは【充実感】だと私は思う。
自らが良いと信じたことに対して、積極的に取り組んだときに来るあの感じである。「あの」で伝わるかどうかわからないけれど(笑)
充実感というのは、もちろん薄れていくものではある。しかし、負の感情ほど鮮明に残ることはないが、確かに自身の中に蓄積されていくものだ。
弁舌家であればそれは同じ欲望の充足行為に過ぎないと言うだろう。
しかし、人間にとっての幸せというのはそんなにも崇高なものでも崇めるような代物でもない。
そのことに私たちはとうに気づいているのではないだろうか。
弁論は観念論になると永遠に続く。これからも。
だが、現実の中に人の尊厳があるのであって、自分にしかない人生を積極的に、主体的に耕していく命の姿勢が、より強固な幸せをその身に育むことだろう。
朝、竹箒で庭の落ち葉を掃いていると、色んな人が家の前を通る。
「おはようございます、今朝はまた寒かですね」
「ねー、もう年取ったら寒うしてたまらんばい」
そんな小さなやり取りの中に、こんなにも長々と論じるまでもなく、幸せのエッセンスというのは、つまっているのだと思う。
損な性格してるな、わたしは(笑)
©心瑠華へべれけ