じゃがいもを包丁で剥く
私はじゃがいもを包丁で剥くのがちょっと好きだ。
いつもは速いからピーラーで剥いているけれど。
休日だったり余裕のあるときは、たまーに包丁で剥いてみる。
じゃがいもの曲線に沿ってゆっくりじっくり。丁寧に剥いていくと、剥きあがりの姿はふくふくと可憐な可愛らしさをしている。
身体の曲線を肯定された、祝福を一身に受けた赤ん坊みたいだ。
それは普段ピーラーで直線的に剥かれカクカクした身体とは明らかに異なっている。だから私は、ピーラーって暴力的なのだわなんて考えてしまう。
洗うと黒くどろどろの出てくる乾いた砂色の皮の下に、こんなにみずみずしくあかるい白や黄色が隠れているとは。奥ゆかしく、でも確かに幸せそうな、ころころしたじゃがいもたち。
最近編み物を始めた知人から、編み物の良さは無心になれるところだと聞いた。
考えてみればじゃがいもを包丁で剥くことにも同じ良さがあるように思う。
その姿をよく観察し、曲線に沿ってしょりしょりとひたすら剥いてゆく。芽のまわりなど凹んだところもなるべく丁寧に細かく手を動かしてゆく。没頭すると本当に無心になれる。
没頭できる要因のひとつに、剥いた皮が飛び散らないことがあると思う。
ピーラーで力任せに剥くと身から外れた皮はピョンピョン跳び散る。
真っ白なまな板の上に皮が跳ねて、洗い残した砂が表面の凹凸に入り込む。にじむ嫌悪感をグッと堪え、「いいさ。まな板は後で洗おう。今はさっさと剥いてしまおう」そう思いながら手を動かすと、皮は床の上にピョンと跳ぶ。
台所に侵入した猫が皮をスンスン嗅ぐ。万一のことがあってはいけないので苛立ちながら屈んで皮を拾い上げる。
一方包丁ではそれが無い。
皮は包丁の上にとどまってくれる。親指をひょいと伸ばし上に押し上げるといちいち皮を捨てなくても剥き続けることができる。
作業がコントローラブルつまり制御可能であることは、心の平穏に寄与する。私は平和な心で無心に芋を剥いていく。
たまにはこういう時間をとるのも必要なことだよね。
そんなわけで、ゆっくり過ごす贅沢をかみしめる年の瀬でした。2023年は大変お世話になりました。
来年もよろしくお願いします。