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2021年夏|思い出のワンピース
短いほうが好きだと彼が言うから、髪を切った。15年ぶりのショートカット。ずっと伸ばしていた髪を切るほど、彼にかわいいと言われたかった。
でも、彼は待ち合わせに来なかった。よくあることだ。
「約束や予定は嫌い。会える時に連絡するから、その時に都合が合えば会おう」彼は仕事が忙しいのだ。わかっていたはずなのに。
会えるかも、と思って丁寧にしたメイク。遊びにくるかも、と思って作った食事。彼が来なければ無駄になった。なにもしないで待てばいいのに、会えるなら少しでも、彼の目にかわいく映りたかった。
会えた日の帰り際は「次はいつ会える?」の言葉を飲み込んだ。彼にとって都合よくいたかった。
好き。これからも一緒にいたい。ただ、次に会う約束すらできない相手との将来を信じるのはむずかしかった。
ひとりで過ごす淡々とした日々に、満足できたらいいのに。毎朝7時半に起きて、9時から19時半までは仕事。帰宅後は夕食と家事、読書、勉強、お風呂。時々映画を観たり出かけたり。そういう日々。満たされなかった。ケーキや花を買っても他の誰かと過ごしても、彼がいないと足りなかった。
例えば足のつかない広い海に月曜の朝、静かに飛び込んで、金曜の夜まで泳ぎ続ける。週末に彼と会ってはじめて、岸に上がってほっと一息つける。と思ったら会えなくて「はい、岸までもう1セット追加です」。そういう感じ。
もう1セットで確実に陸と約束されるならまだよかった。あとどのくらい泳げば岸なんだろう。そもそも方向は合っているのかな。そろそろおぼれてしまいそうだ。
秋の初めの涼しい夜。彼から急に連絡が来た。「今から食事に行こうよ」と。
急いでクローゼットの扉を開けてハンガーから外したのが、そのワンピースだった。半世紀以上前に仕立てられたワンピース。真っ白で花のレースがつなぎ合わさってできている。丈もラインも、私のために作られたみたいにジャストサイズ。短く切った髪のおかげで、胸元の切替とくるみボタンがよく見える。
神楽坂の屋上のイタリアンは、風が強くてうまく声が聞き取れなかった。なびく髪を押さえて、近寄って会話する。彼が口をひらく。
「そのワンピース本当に似合うね。かわいい。それ着て結婚の挨拶に行く?」
「うん、そうする」
驚かず、努めて冷静に答えたのは、さもあたりまえのようにそうしたかったから。この夜に何が決まったわけではないけれど、これからも一緒にいるつもりでいるのだという、ただそれだけが心の支えになった。これからどのくらい泳ぐかはわからなくても、灯台ができた。
1年後、一緒に住める状況になり結婚が決まった。親への挨拶に着ていくのは、もちろん例のワンピース。神楽坂の夜に着ていたから、だけじゃない。実はこのワンピース、57年前、当時結婚したばかりのおばあちゃんがオーダーメイドで仕立てたものなのだ。離れて住む祖父母に会えないぶん、ワンピースを着て、家族写真を撮って送ろうと思った。
おばあちゃんはこのワンピースについて、結局機会がなくて一度も着なかったと言っていた。お母さんも、サイズが違って一度も着ていないと。じゃあ、今日わたしが代わりに着て、結婚の報告と一緒に写真を送ったら? 着たことのないワンピースにも少しだけ思い出ができないだろうか。
「おばあちゃんに送るから、写真撮るね」
そんな口実で、彼とはじめて写真を撮った。
写真のなかの私は、いつもよりかわいい顔をしていた。彼といるとき、私はこんなふうに笑うんだ。彼は私といるとき、こんなふうに笑うんだ。
私をここまで連れてきてくれたワンピースは、今日写真を撮るきっかけをくれた。一緒にいるときの幸せそうな顔を知って、ここまでこられてよかったなあと思わせてくれた。
おばあちゃんもお母さんも、どう育つかわからない私に、このワンピースをとっておいてくれてありがとう。本当にぴったりの、とっておきのワンピースでした。結婚式はしないから、これが私のウエディングドレスです。
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