ミッドタウン日比谷でシェイプ・オブ・ウォーター観てきたぜ。
借りたでかいスウェットを着て、髪ボサボサのままゴロゴロしながら、向こうが仕事行っちゃった一人の部屋で、観た映画のレビュー書くOLです。時々自堕落なことをしたいんだよ、、
いやーーーーよかった。まず最初の童話的なはじまりかた。私はそういう世界の住人なので、こういうはじまり大好きです。色も綺麗。(疲れてるとき、こういう水みたいな映像と音楽はすごくいいよね。)
ぐっと吸い込まれて、ずっと緊張して、ぬいぐるみでも抱っこして観賞したかった。だって、だって「早く逃げて、安全で幸せに暮らして。」って始終思って不安なんだもん。ぶち壊されるのがこわいんだもん。
いろいろな形のコミュケーションによって、いろいろな文化が生まれる。
例えば、カフェ店員とおじさん、おじさんとイライザ、イライザと半魚人は、それぞれ別の形でコミュケーションをとる。
それによって、ふたりの間には独自の文化が生まれる。言葉(というかコミュケーションツール、表象物)は文化のコードだから。
同じ言語を使っても使い方次第で、ひとつとして同じ文化は存在しないんだよね。人と人との間には。それが関係値というやつか。
悪役の、ストリックランドがセックスの時に妻の口を塞ぐのは、ふたりの間に文化(共通認識としての)なんて生みたくなくて、自分の思う通りだけであってほしいから。自分しか正しくないから。
だから口のきけないイライザに燃えるんだよね。
イライザと半魚人は、コミュケーションを通して文化をつくった。怠けないでそういうことをやった。愛情の示しかたはどんなだった?
ちなみに見終わったあと感想を言い合って行くなかで「なんでオナニーしてるシーンあったんだろ」と聞かれた。んだけど、たぶん"一般的な人間"と違っていても、普通に性欲もあって普通に暮らしてるんだよ。っていう、、あの、、ハンデがある人を弱いとかかわいそうだとか、それでも一生懸命生きてるだとか思いがちなバイアス。オブラートに包まずにいうと乙武さんの事件で世間はびっくりしたんでしょ?道徳的なことを抜いたら、あとはびっくりすべきことじゃないんだよ。普通なんだよ。っていうことで、あのシーンはあるのでは。雑な言い方すると、声が出ない人も、半魚人も、普通にセックスします。という。
あと水の形。というタイトルについて。水は体の形になって外を満たすよね。文化のコードによって、見える外界が違っていて、それが体の外を満たしているよね。水滴が繋がったり、ふたりで水の中に入ったり。置かれた状況やコミュニケーションによって形が変わるよね。愛の形もそう。水の形のなかに愛の形があるし、この映画だと愛の形の意でも問題ない気がする。
帰りにまあちょっとあって「重要なのは、部屋が綺麗とか散らかってるかとかじゃなくって、そんなのは全然大事じゃなくて、ちゃんと相手のことが大切だよって伝わっているかどうかが大切なの。(たまたまレビュー冒頭にもあるけど)安全で健康で暮らしてほしいって相手に伝わることが私にとっての愛なの。」という話をした。確かに部屋を綺麗にすることは、私が安全で健康に暮らすための延長線上にあるかもしれないけど、それはかなりの延長線上でしょ。まずはもっと近くからそうしてよ、の話。
好きなら、まだまだ労力を惜しまずコミュケーションして、ちゃんと相手の話を聞いて、シェイプオブウォーターしていかないといけません。(最近、ふざけてなんだけど「〜だよね?」という言い方が増えてしまって、ストリックランドみたいになりつつある気がしてきた、このレビューしかり。でもストリックランドが"正しい"ことを信じ続けようと守ろうと必死なところとか、今まで本当にがんばって"正しい道"を行き続けたのに蹴落とされそうになるところの絶望とか、それまでのがんばりとかみんなそういう要素も持って生きてるよね。悪役にも感情移入できる可能性がある作りになってるのがまたよい)
それでも、コミュニケーションはあくまで表象をもって行うことだし、もし仮に神経の接続ができたとしても、Aの伝えたeggがBに100%そのまま伝わるなんてことはない。永遠に100%わかりあうことはできないと思ってる(切ないけどそれがよいこともある)たとえそれがeggだとしてもそうなんだからloveなんて尚更よ。
良い映画でした。拷問のシーンあるし緊張するしだから、もうしばらく観ないけど。
観終わって放心してたら終電逃しました。
#日記かよ #ミッドタウン日比谷 #デート #映画 #映画レビュー
#シェイプオブウォーター
いつも非常に個人的な話になっちゃう(しちゃう、楽しいから)。社会のことと繋げられない。たぶんそんなに興味ないんだと思う。そういうところが子どもみたいだなと思う。