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#10 伝統芸能から見える日本人の悲しい性
本棚から、村上春樹さんの「辺境・近境」という本を取り出して、久しぶりに読んでみた。
その中に「ノモンハンの鉄の墓場」という章がある。
1939年に、満州駐屯の日本軍とソビエト・モンゴル人民共和国連合軍との間に激しい戦闘があり、それをノモンハン戦争と呼ぶ。
村上さんは、どういうわけか、この戦争に惹かれるものがあり、その理由に、この戦争の成り立ちが「あまりに日本的であり、日本人的であった」からではないかと推察している。
ぼく自身は、ただのフリーターで、フラフラと生きている身の上なので、国や世間の心配の前に、まずは自分と自分の身の回りの心配をしなくてはいけないのだろうが、そんなぼくから見ても、今の世の中は、あまりにいい加減に成り立っているし、権威ぶっているものがあまりに浅はかに感じられてしまう。
などと嘆いたところで、ぼくに出来ることなど無いに等しい。出来うる限りの正しいことをするつもりではいるが、恐らく結局は無力感が残るだけだろう。
夏目漱石の小説の誰かが言ったように、そう遠くない未来に、この国は滅ぶんじゃないかと、感じることも稀にある。
そう思う最中に、「ノモンハン鉄の墓場」を読んでいると、このような一説があった。
「兵士たちの多くは同じようにほとんど意味を持たない死に方をしたということだった。
彼らは日本という密閉された組織の中で、名もなき消耗品として、きわめて効率悪く殺されていったのだ。そしてこの「効率の悪さ」を、あるいは非合理性というものを、我々はアジア性と呼ぶことができるかもしれない。」
話を別のことに移そう。
狂言の野村家のドキュメンタリーを見た。
まあ、世襲制の伝統芸能ドキュメンタリーに良くある構成がされていた。
祖父から父へ、父から息子へ、と親子三代の伝統の継承とそれに対する葛藤を描くものだ。
そこでは、先立達の厳しさ、それに対して従順に従う若い世代がポジティブなこととして描かれる。
ドキュメンタリーの最後は、パリの劇場での上演で、こちらもお決まりのジャポニズムを讃えるフランス人のコメントで締める、という構成。
恐らく、多くの人は先立達の厳しさに威厳を感じ、若い世代の純粋さを応援したくなるだろう。
だが、ぼくはこのドキュメンタリーに、前述の村上さんの言う「密閉性」や「効率の悪さ」、そして、盲目的な父性社会の非健全さを感じずにはいられない。
ぼくも一部を覗き見しただけだが、芸能の世界というのは、時代遅れも甚だしい古い価値観ががっつりとまかり通ってしまう世界である。
例えば、世襲制という制度を考えてみても、子供側に選択の自由などほぼないだろうし、幼い頃から、ある種の洗脳教育のように、受け継がれてきた価値観を継承していくのだろうから、そこに自由など無いように見える。
例えば、ある演技を習得する為にエクササイズを効率化することや、伝授される演技や動きの目的、そもそも、今後これらの伝統芸能が公的な助成を頼りとせずに成り立ち得るのかといった質問することは、まるでタブーであるかのように、弟子は師匠の言うことに黙って従うのみだ。
また、伝える側の師匠も敢えて教えるスタイルを変える意思はないように思える。
伝統芸能の継承は、極端な在り方だとしても、ここに見られる日本人の在り方は、多くの日本人の精神性の中に見られる性質なのではないだろうか。
そこには、何が目的で、そこから逆算して行動をデザインする、という考え方が薄い。
何が正しいのか、何が善なのか、何を犠牲するなら良いのか…
これらの答えは決して一つではないし、正義は人によっても、社会によっても異なる。
考えてみれば、教育過程の中で、自分の考えを表明する機会も極端に少ない。
あったとしても、教師や親が怪訝な顔をしない模範解答をする子供が多い。
シノゴの言わずにやれ!という気持ちは分かる。ぼくの中にも、体育会系の血と日本人の血があるのだから。
毎度毎度、質問されるのだって面倒くさいだろう。
芸を身につけるには、なにより純粋で素直であること、という言葉が、祖父から孫に向けられていた。
確かに学ぶことは、真似ること。
そこに先代のコピーは生まれ続けていくだろう。
でも、
爺さんの言ってることは本当なのか?
親父の言ってることは本当なのか?
と疑い、自分の価値観を築いていくこともまた重要なのでは、と要らぬ心配をしてしまう。
非健全な父性社会に、いいから黙ってやれと言われ続けた子供達が、いいから黙って戦地へ行けと言われて、名もなき消耗品として、きわめて効率悪く殺されたように、ぼくにはどうしても繋がって見えてしまうのだ。