見出し画像

象潟&三種への道⑬

天然のクーラーで体が芯まで冷えたところで、車へと戻る。
次はどこへ行こうかとこれまた場当たり的に調べ、にかほ高原の「土田牧場」を目指すことに。車で30分ほどの場所のはずだが、その道はかなりの坂道で、途中からは霧まで出てきたため、「高原って標高の高いところにあるんだねぇ」などと当たり前のことを改めて確認し合う。
ネットの情報では「アルプスの少女ハイジの世界」という感想が寄せられていたが、なるほど、周囲には草原が広がるばかりで、その中にポツンと佇む土田牧場は確かにハイジっぽい。少し先の山頂には風力発電の風車が回っているが、それだって遠目に見れば十分ハイジ風だ。
この時点で時計は午後4時を指している。当然のようにここにも人影はない。入り口近くの丸太づくりの建物に入ると、お土産物やさん兼軽食処のようで、お店の人がいたことにホッとする。どうやらここは「カワイヨーグルト」発祥の地だそうで、ジャージー牛が売りらしい。
せっかく牧場に来たのだからと、ネットでの評判のすこぶる良かった「幸せの牛乳」と「チーズトースト」のセットと、手作りウインナーをT先生とシェアすることに。チーズがたっぷり乗ったトロトロふわふわのチーズトーストに、比較的あっさりとした飲み口の牛乳がよく合う。手作りウインナーも想像通りの美味しさだった。
この牧場には犬がいるというので、この際牧羊犬でもレトリバーでもブルドックでも、秋田犬に会えなかった無念さをまぎらわそうかと奥の建物に行ってみるが、犬の姿が見えない。きょろきょろしていると、さらに奥の建物に犬らしき動物が見えた。その奥の建物から出てきた若い男性に「犬に会えますか?」と訊くと、今は食事中とのこと。どうやら今日の営業は終わったようだ。さすが犬ファーストの秋田県だ。
「うさぎはいますよ。ニンジンあげてください」ということで、手前の建物にこれまた妙にたくさんいるウサギたちにニンジンをあげることにする。
いくつかの箱に仕切られた中に、とにかくウサギがたくさんいる。なるべくまんべんなく食べさせたいと思うが、おとなしい子はいつまでも奥にいて、なかなかニンジンを食べられない。すぐ目の前に投げても、機敏な一匹が横取りしてしまう。ウサギの社会もなかなか厳しいようだ。「強く生きるんだよ」と心の中でつぶやいて、ウサギ小屋を後にする。
営業時間は午後5時までということで、再び駐車場へ。高原を吹き抜ける風が心地良い。「確かに別天地だなぁ」などと緑の丘を眺めていたら、「ところで牛はどこにいたんだろうね?」とT先生に訊かれた。そこで初めて、牧場に来て、まだ1頭も生きた牛を見ていないことに気付く。
あの牛乳の製造元であるはずのジャージー牛も店じまいなのだろうか。釈然としないながらも、車を出すと、助手席のT先生が、すぐに「あ、いた!」と窓の外を指さした。確かに牧草地の中に茶色い体の牛が数体くつろいでいる。「確認できてよかったですね」と、もはや何が良かったのかよく分からないながら、うんうんと頷きながら再び山道を下った。

次の目的地は決まっている。「めし肴・・・」だ。店名は「てんてんてん」と読む。店名を考える際、思いつかなかったからこの名前になったそうだ。
この時点で当然のように、お腹はほとんど空いていない。しかし、こちらもネットでの評判が非常に高く、小料理屋さんのようなので、主食は抜きで、おすすめを数品食べられれば、そんな軽い気持ちだった。
午後5時半、店に到着した。こじんまりした店構えで、看板も控えめなため、調べていなければ確実に素通りしている、そんな店だ。
オープン時間のはずだが、暖簾が出ていない。念のため店に電話をすると、「やってます」とのことだったので、店内に入る。カウンターが4席ほど、あとは小上がりの席が3~4席といった小体な店だ。何やら渋い表情の店主と、素朴な雰囲気の中年女性が迎えてくれた。奥の小上がりの席に通される。メニューはおまかせのみで、3000円から、とのことだったので、「では3000円で」とお願いする。この時点でも、我々はまだ事の重大さに気付いていなかった。 
先附は煮貝やキュウリの酢の物など、小皿に3品、どれも品よく美味しく「うん、うん」という感じでいただいていたのだが、次のお刺身の盛り合わせが終わる頃、女性が「枝豆はお好きですか?」と、ざるに盛られた茹でたての枝豆を、東京の居酒屋の倍量持ってこられたあたりから「?」という感じになってきた。
その後、立派なサザエのつぼ焼きと、「これは2人で1匹ですよね?」というサイズの鯛の煮付けが当然のように1人1匹ずつ提供され、「??」となり、アマダイのような地魚の焼き魚がこれまた1人1匹ずつ出てきたあたりで、「本当にこれで3000円なのか?」「一体いつまで料理が出てくるのか?」という底知れない不安がピークに達した。
給仕してくれる女性に「もう終わりですよね?」と訊くと、「いえ、あとお肉料理と天ぷらがあります。そのあとは〆のご飯か麺も選べますよ」というので、慌てて遮り、「飛行機の時間があるので、天ぷらまでで結構です」と伝えると「本当に?」と不思議そうに聞かれる。
そもそも我々はそこまで空腹だったわけではなく「ちょっと秋田の味を感じられれば」くらいの軽い気持ちで来ているので、当然この時点でお腹はパンパンだ。ただ、店主の心尽くしの料理の数々を無碍にはできないというその一念で食べ続けたが、それにも限界がある。
しかも、入店時から店主は渋面を崩さず、サービスの女性にも何かきつい言葉を浴びせているようで、店内には妙な緊張感が漂っていたため、せっかくの料理を残すなんて怖くてできなかったという事情もある。
お肉は店主の得意料理だという豚の角煮をマッシュポテトに乗せたもの(女性はマッシュポテトではないと言っていたが)で、肉柔らかく、マッシュポテトもクリーミーで美味しかった。天ぷらは、なす、ししとう、きす、焼きなす。焼きなすを天ぷらにするというアイデアには店主の料理への深い洞察と愛情が感じられた。
どれも素晴らしく美味しかったのだが、時間の都合もあり、われわれはほとんどフードファイト状態で料理を口に運び続け、なんとか箸を置いた。
「これで無事に店を出られる!」と思っていると、店主がこちらへ顔を向けた。意味もなく叱られるかと首をすくめたところ、聞こえてきたのは「本当にもういいの?お腹いっぱいになった?まだ料理はあるよ?」という優しい言葉だった。「いや、飛行機の時間もあるので」と言うと、「そうか~、また今度ゆっくり来てよ」という。
お会計の時にはT先生に「明日から連休だからあまり用意がなくて…。次は電話で予約してくれたら飛行機に間に合うように準備するから」と言ってくれたそうだ。
空港までの道々、2人でいろいろなことを総合して考えた結果、あの店主は決して厳しい人ではなく、身内に対する秋田弁が我々にはきつく聞こえただけで、愛想笑いができない朴訥さは否めないものの、お客想いの素晴らしい料理人だったのだという結論に至った。「次はお腹をぺっこぺこにしてから来ましょうね」と誓い合い、空港へと道を急いだ。何せ思った以上に食事に時間がかかってしまったので、時間に余裕がない。
とっくに日は落ちて、辺りを包む闇の深さは東京とは比べ物にならない。街灯の少ない高速道路を迷いなく進んでいくT先生がこの上なく頼もしく見える。
ガソリンスタンドに寄る時間は無かったので、秋田空港近くのレンタカー屋にそのまま向かう。私は、ガソリンを満タンにしていなくても、追加料金を払えばレンタカーは返却できるということを今回の旅で初めて知った。何事も経験してみないと分からないものだと思う。
秋田空港から羽田へは約1時間で到着する。この2日間、車で秋田を走り回ったことを考えるとそれはとてつもないことのような気がしてくる。それと同時に、別に行く必要のないのないところに行き、見なくてもよいものを見て、食べなくてもよいものを食べる「旅行」というのはぜいたくな時間の使い方だともしみじみ思う。そうやって行った先で、偶然出会った人や風景との間に縁が生まれ、驚いたり喜んだりすることこそ、私にとっての旅の醍醐味に他ならない。

私は「旅」というものを考えるとき、その土地と自分との間に一筋の糸を結ぶイメージを描いている。同じ土地を訪れれば、その糸は少しずつ太さを増していく。糸のつながった土地で災害があれば、少なからず動揺するし、その土地に良いニュースがあれば、どこかほのぼのとうれしくなる。秋田はそういう意味では今回の旅で初めて向き合った土地だ。
豊かな自然の恵みを湛えながらも、素朴で、万事控えめな秋田県。まだまだ隠れた魅力が詰まっている予感がするこの土地とのご縁の糸をつないでくれたT先生には感謝してもしつくせない。

後日、持ち帰った鶏肉とじゅんさいで鍋をした。比内地鶏スープで煮込まれた鶏肉は、噛めば噛むほど旨味の滲み出る逸品で、その味わいの豊かさに驚かされた。もっと驚いたのはじゅんさいで、熱い鍋の中でも矜持を崩すことなく、独特のぬめりとシャキシャキとした歯ごたえで期待をはるかに上回る働きを見せてくれた。次はぜひ6月に訪れ、じゅんさいをバケツ一杯摘んでみたい…、ような気がしないでもない、かもしれない。

いいなと思ったら応援しよう!