牛隆佑『歌集 鳥の跡、洞の音』を読む
整然と短歌が並んでいる集の中に、ここだけ、短歌が解体してゆくように断片になりつぶやきになって終わるという一連がある。*
誰に「ゆるしてほしい」と乞うているのだろう。そう思うに至ったきっかけは何だったのだろう。背後の状況は何もわからない。ただ、何か切迫したものが、目を立ち止まらせる。
許してほしい。不完全なままでいいから、ここにいていいと言ってほしい。
そんな切実な願いを抱えて生きている人は、わたしが思っているよりはるかに多くいるのだと思う。その中のひとりとしてわたしは、この短歌――詩と言ってもいい――を読む。
「生きる」「死ぬ」「許す」といった抽象的な概念を扱っているのに、この一連が茫漠としたものにならずに成立しているのは、「水族館の順路」という描写があるからだ。この設定があるから、作者がどこにいて何をしているか、その場所の明るさ暗さ、水の匂いまで具体的に伝わってくる。二行目の「順路を進め」という初句が、胸に響く。
最後の「ゆるされている」という一行は、ページをめくった裏側に配置されている。この、問題集の隠された答えのようなレイアウトが絶妙だと思う。
「ゆるされている」の根拠は〈今こうして生かされているから〉ということになるのだろうか。だとしても、作者は全面的にそれを甘受していない気がする。「ゆるされている」と仮に決めて、そう自分に言い聞かせようとしているのではないだろうか。
*当該本には、縦書きの下揃えで文字が配置されている。左に向かって階段を降りて行くように文字列が短くなってゆく。