2.奈良の大仏も疫病がきっかけ
聖武天皇が大仏に込めた願い
疫病の神として祀られたのは牛頭天王だけではありません。
奈良時代の七三五年から七三七年にかけて天然痘が大流行した際には、疱瘡神をお祀りしました。ちなみに、この天平の疫病大流行は深刻なもので、一節によれば一〇〇万~一五〇万人が病死したといわれています。
この数は当時の人口の約25~30%にあたり、朝廷の政務までもがストップするような事態にまでなりました。
医学が発達していない当時は感染爆発は祟りと受け止められ、疱瘡神をお祀りすることによって何とか事態の打開を願ったのでしょう。今も疱瘡神を祀る社寺があります。
天平の疫病大流行がようやく落ち着きを見せたのは七三八年一月。約三年にも及ぶ大惨事は政治・経済にも甚大な影響を及ぼし、国の活力は著しく失われました。これを憂えた聖武天皇が発願したのが盧舎那仏の建立です。誰もが知る「奈良東大寺の大仏様」は疫病の大流行がきっかけで造られたのです。
国家が疲弊しているなかで大事業に乗り出す
『東大寺要録』や『大神宮諸雑事記』によれば、聖武天皇は大仏建立に先駆けて右大臣橘諸兄を伊勢神宮に派遣し裁許を祈らせたところ、聖武天皇の夢に天照大神が現れ、自分の本地は盧舎那仏であり、大仏建立は深慮に叶うものであると示したといいます。
簡単にいえば奈良東大寺の盧舎那仏は天照大神でもあるというわけです。
このように神が仏の姿となって現れることを本地垂迹といい、神仏習合はますます進んでいきました。
こうして始まった大仏建立という一大事業ですが、七四五年の造立開始から開眼供養会が行われた七五二年まで約七年の年月がかけられています。
建立に動員された人数はのべ二六〇人、大仏と大仏殿の建造費は現在の価格に換算すると約四六五七億円にもなるといわれています。国家が疲弊している時に、あえて大仏建立という大事業に乗り出した聖武天皇のねらいはどこにあったのでしょうか。