10 売りに出された興福寺五重塔
このあたりで、これまでお伝えしてきた流れを整理してみましょう。
「和の精神はどこから来たのか」ということについて、大きな鍵となるものの一つに仏教伝来が関係することを述べました。
一般的にいわれる仏教公伝は六世紀ですが、それ以前から様々なかたちで日本に入っていました。
そして、推古天皇が仏教を興していくというわが国初の詔勅を下されたことにより、仏教は国教となり、もともとあった神道と融合していくことになっていきます。
その際、重要な役割を果たしたのが聖徳太子で、三経義疏は日本仏教と位置づけられました。
空海や最澄をはじめとする日本における高僧は、すべて聖徳太子の日本仏教から出てきています。
その後、神仏習合の歴史は、時代ごとにかたちを変えながら受け継がれ、そうした中、排他的にならず調和を目指していく「和」の精神が形作られていったのです。
江戸時代までは神社と仏閣は渾然一体となっており、たとえば伊勢神宮には伊勢神宮寺があるなど、神社の中に寺院がある、寺院の中に神社があるという風景がごく当たり前でした。
今も奈良や京都には、往時を偲ぶ光景が見られます。
たとえば東大寺の中には手向山八幡宮をはじめとする神社の鳥居がいくつか見られますし、東寺の中にも神社があります。
調和・平和・融和を目指す「和」のかたちは、このようにして具現化されていました。
それが大きく崩れてしまう大きなきっかけが、慶応四年三月に太政官布告として出された、いわゆる神仏分離令です。
神仏分離令は明治初期までに集中的に出され、その頃の世情不安と相まってか、廃仏毀釈へと発展していきました。
奈良・興福寺の僧侶は全員、還俗(僧侶をやめて在家に戻ること)するか、神官になりました。
夥しい数の仏典や仏像が破壊され、五重塔はなんと今の価値にして十万円にも満たない価格で売りに出されたのです。
入手した人物は金属だけを手に入れようと五重塔を破壊しようとしました。