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Adagio~アダージョ

 淡い黄色のセロファンを通して景色を眺めるような初秋の午後、私はあてのない散歩に出かけた。特にこれといってすることのない休日を、たっぷりの怠惰な睡眠と読書で過ごし、過ごし続けたあげく、それにもついには飽きたのだ。
 静まり返った住宅街ではいつの間にほころんだのか、家々の鉢植えを秋の花が揺れている。中学校の校庭からは、何やら甲高いかけ声やホイッスルの音が、途切れとぎれに聞こえてきた。運動部の部活か、何かの練習でもしているのだろう。
 私は目に映る景色や耳に届くそれらの音を、ぼんやりと受け流しながらゆっくりと歩き続けた。
 と、その時である。
 すっかり忘れ去っていた遠い日の出来事が、出し抜けに蘇って私を驚かせた。
 その記憶は、ごく小さな棘が指先に寝そべっているかのように、さして痛くもなく、しかしながら絶えず違和感を抱かせ続けるような具合で私の中に存在していたに違いない。その違和感にしても、気になって仕方がない、というほどのものでもないが故に、他のことで夢中になっているうちに忘れて去られてしまうような類のものだったのだろう。
 ともあれ私は、まったく思いもよらずに想い出してしまったのだ。黄色みを帯びた日射しや、それを受ける校舎の白い壁、ため息でもついているかのような色に染められたポプラ並木が、その事柄をおびき寄せたのかも知れない。


 それは私がまだ中学校に入って間もない頃のことだ。
幼い頃からピアノを習い始めた私は、両親やピアノ教師の薦めで音楽学校の中等部へ通っていた。母の話によると、わずか三才で習いはじめたらしい。 そんな幼い子供が自分からピアノを習いたいなどと言い出すはずもないだろう。私は両親に言われるがままピアノのレッスンに通い、物心ついた頃には毎日ピアノの練習をするのが当たり前になっていた。私は練習をもなかば楽しんでいた。
 当時幼い私を取り囲む大人達は、才能があるなどと騒ぎ立てていたものだが、私にはそれが何のことだかさっぱり解らなかった。
 いま思えば、小学校に入る前から中級クラスの曲を弾き始めていたのだから、大人達が騒ぎ立てるのも無理はなかっただろう。
 私はそんな大人達の期待を背負いつつ、音楽学校に進学したのだった。しかしその頃から両親やピアノ教師が抱く私への期待が重苦しく感じられるようになっていった。私はそもそも好きで弾いていたかっただけだというのに、である。
 私はその重苦しさから逃れるために、毎日何時間もピアノを弾き続けた。あまりに度が過ぎたのだろう、ついにはそれが原因で、腱鞘炎になってしまったのだ。
 はじめは何てことない、などと多寡を括っていた。手の甲に痛みを感じる事があっても、私は敢えて無視しようとした。痛みを両親に訴える事も、教師に相談する事もしなかった。
 もっとも教師の方はそのうち気がついたのか、私に病院で診て貰うよう勧めたりしていた。しかし私は曖昧な返事でその勧めを受け流しつつ、いつまでも痛みを放っておいたのだった。
 
 そんなある日、とんでもない激痛が私の手を襲った。私はすぐさま病院へと連れて行かれ、すぐその場で入院しなければならないことや、明日にでも手術をすべきであることなどを告げられたのだった。
 
 手術が無事済んだのは、ちょうど初秋の頃だった。新学期が始まったばかりで、新しい曲が課題になっていた。
 課題曲に取り組む事が出来なかった私は、遅れを取ってしまった故の焦りに苦しんだ。幼い頃からレッスンの度に言われ続けた、「一週間ピアノを弾かなければ、一ヶ月遅れをとることになる」などの言葉どもが、繰り返し想い出されては私を一層に焦らせた。
 しかしその激しい焦りが、かえって早期でのあきらめを生じさせたらしい。頑ななまでにゆっくりと流れ続ける日々の中で、それらが徐々に失われていった。
 病室の白い壁、白いシーツ、リノリウムの床から漂ってくる独特の臭い、身体のあちこちを包帯に巻かれながら、言葉少なに過ごす人々。それらの風景に囲まれ、埋もれていくうちに、私の心は静まり返っていったのだった。
それは老婆が抱くかもしれない、人生に対する諦めにも似た感情ではないだろうか。いつのまにか私は、ピアノや課題についてのことなどを思い出さなくなっていた。
 このままこの白っぽい空間の中に閉じこもっていたい、そんな風にすら思った。

 私の心がそのような形で落ちつき始めると、今度は見舞いに来る母や妹の存在が、憂鬱極まりないものとして感じられるようになった。
 面会時間の到来と共に部屋のドアがノックされると、私は心の底からがっくりと萎え果てて行くのを覚えたものだ。
 母の登場は、心配顔をドアの隙間から覗かせることから始まった。
「どう?調子は?」などと声をかけつつ入って来る母の後を、まだ幼い歳の離れた妹が、妙な歌を口ずさみながらついてくる。
 母は私の顔色を窺いながら、果物やジュースやお菓子などの差し入れを袋から取りだしては、部屋に備え付けの小さな冷蔵庫にしまったり、テーブル代わりの小さな棚に並べたりした。
 妹は興味津々の目で母の一挙手一投足を見守りながら、自分におこぼれがくるのをひたすら待ち受けていた。
 儀式のような一連の動作を終えた母は、お決まりの質問を私に投げたものだ。
「痛くない?何か、持ってきて欲しいもの、ある?ああそう、ゼリーでも食べない?」
 私はそれらひとつひとつに対して首を横に振ることのみで応えていた。
 すべき質問の全てを終えてしまった母は、最後に必ずため息をついた。そして、私がなかなか退院できないことや、ピアノを弾けないことについて、哀れっぽい調子で愚痴を続けるのだった。
 ピアノを弾けないこと、それは即ち私が母の期待にそぐえなくなるかも知れないということに他ならなかった。
 母は自分の夢を私に託し、私がそれを叶えてくれるものと信じていたのだ。私が練習に励むことができなくなること、遅れを取ることは、母にとって自分の希望があえなく萎んでいくことだったのだ。
 母は、無論そんなことを受け入れるつもりなどなかったに違いない。
 ことさら無口になっていく私を囲んで、病室の中は妹の口ずさむ腹立たしい歌や、舌足らずな独り言が空しく漂うばかりだった。



 
 退院間近になると、母は少しでも私に遅れを取り戻して欲しい旨を始終口にするようになった。
 いや、意味を伴った言葉としてではなかったが、どのような言い方をしたとしても、その裏にあった母の想いはそういうことだったのだ。
 母が見舞う度毎に私は心をかき乱され、常にいらだちを憶えるようになっていた。
 そのいらだちが募りに募った退院間近のある日、私はついに心にもないことを言ってしまったのだ。

「もう、ピアノを続けるつもりなんか、さらさらないの。退院したら、できるだけ早く普通科の学校へ転校させてちょうだい。もともと好きで始めたわけでもなんでもない。ママたちが勝手に決めたことでしょう!?いつまでもしつこくピアノの事なんて言わないで!」

 その言葉を聞いた母は、驚いた表情でひとしきり私を見つめた後、とぎれとぎれの言葉を意味もなく連ねては繰り返すばかりだった。私をどうにかなだめようとしたのだろう。
 その脇で、妹が絶えず何事かを喋っていた。私は母のやり切れぬ言葉よりも、何故か妹が同じ単語の連なりを繰り返し言い続けていることの方が、どうにもこうにも気に障って仕方がなかった。
 妹はのどが渇いたことをいつまでも母に訴えていた。途中で買ってきたジュースをせがみ続けていたのだ。母がなかなか妹を相手にしようとしないので、何も無ければ相手にするまで言い続けたであろう同じ要求を、ただひたすら繰り返していたのだ。
 
 その時、そう、その時、なぜあのようなことを私はしたのだろう。
 私は自分でもまったく虚ろなまま、いくつも年下の妹が持つその柔らかく幼い頬を、力任せにひっぱたいてしまったのだ。
 妹は一瞬びっくりした顔で私を見上げた後、けたたましく泣き始めた。
 その泣き声は、病院の壁に床に廊下にところ構わずこだましながら、落ち着き払った空気を鋭く切り裂いていった。母はますますおろおろして、妹をなだめすかしつつ、しかし私のことを叱りつけようとはしなかった。
 ついに母はあきらめたのか、いつまでも泣きやもうとしない妹を抱きかかえ「明日また来るから」と叫ぶように言い残し部屋から去ってしまった。
 病室の扉が閉まると同時に、耳をつんざくような妹の泣き声が少しくぐもった。それも次第に遠ざかり、やがて慣れ親しんだ静けさが私の部屋を満たしていった。

 私はその後も、母がいたときと同じ姿勢でベッドに座ったまま、ぼんやりと白いシーツを眺め続けていた。
 どのくらいそうしていたのか、我にかえって窓の外を見ると陽が傾きかけていた。開け放たれた窓から秋風が忍び込んでは、カーテンを揺らしていた。その向こうにうつろうポプラの木々が、日射しを浴びては黄色っぽく光った。
 突然その枝のひとつから小鳥が飛び立った。枯れかかった葉が一枚、それにつれ、音もなく落ちていった。
 私は自分が落ちゆくような想いがした。悲鳴をあげることもなく、正視できないほどの頼りなさでもって、あっけなく落ちてゆくような感覚だった。


 
 やがて私は退院したが、学校を移ることはなかった。しかしその後も腱鞘炎が癖になってしまった様子で、それまでのような練習は出来なくなくなっていた。
 そのうち私は練習を制限されるようになり、病院通いがほぼ当たり前になっていった。それにつれて、母もまたピアノや私の将来の事を言わなくなった。
 いくつかの秋を数えた後、やがて妹がピアノを習いたいと言いだした。母は父と相談した上で、しぶしぶピアノ教室へと通わせてやることに決めた。
 私が弾かなくなった分まで、まるで埋め合わせでもするかのように、妹はピアノに向かっては鍵盤を叩いた。私が弾いていた頃に比べ、調律をこまめに頼まなくなったせいか、ピアノは次第に狂いだし、調子っぱずれなノートを奏でるようになっていった。
 年を重ね、妹もついには飽きてしまったのか、ピアノの蓋は開けられること自体、滅多になくなっていった。
 
 今もそのピアノは調子を狂わせたまま、その音色を響かせることすらなく、部屋の片隅で艶やかな光を放ちながら鎮座している。
 
 私は時折ピアノを前に座ってみることがある。
 だがその蓋を開けることはほとんど無い。口を閉ざすピアノの前で、私の中から聞こえてくる中秋の音色にひとしきり、耳を傾けるのみだ。

                         (了)

※この作品はフィクションです。(初出 1998年)
 




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石川真理子
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