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ジョン・レノンの面影
夏の家は、旧軽井沢の一角にあった。
深い木立にかこまれた古い木造の平屋で、壁一面が不思議な赤い色をしている。
大きな家ではないが、テラスはとってつけたように広かった。
それは、父の知り合いが善意で貸してくれているものだった。家の主は「滅多に使うことが無くなったので、メンテナンスを含めて夏の三ヶ月を利用してほしい」と申し出てきたのだ。「使ってくれるだけでありがたい」と。
自分たちの家とほとんど変わりないくらいにくつろぐことができたのは、善良な家主の心づかいあってのことだったのだ。
その夏の家を、私は愛情を込めて「赤い家」と呼んでいた。
父は早朝と昼下がりに散歩に出る他は、書斎に引きこもる。
母は、家事をしたり、午後はきまって木彫りに精を出す。
避暑地にきたからといって、両親の生活習慣は東京にいる時と、ほとんど変わることはない。
しかし、私は違っていた。
「赤い家」で、私は完璧に健全な生活を送った。
唐松林に幾筋もの陽光が射す頃、私はもう寝ていられなくて飛び起きた。そして、まだ霧の残る林の中を歩くのだ。
しんと冷えた空気が、わずかに残る眠気を瞬く間に追い払ってくれる。
木々の緑は水彩画のようにやわらかくにじんで、目覚めたばかりの野の花たちは朝露を抱き、きらきらと輝いていた。
清涼な空気を全身で呼吸した。体がとても軽く感じる。
私はそこにあるすべてに、心から感謝した。
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しばらくして戻ってみると、たいてい父も母も起きている。
それから私は父と連れだって自転車を走らせる。母が用意する朝食に間に合うように旧軽井沢銀座にあるベーカリーまで、パンを買いに行くのだ。
近くの農家から分けてもらう野菜と卵、濃いミルクティーと焼きたてのパンがお決まりのメニューだ。
それに時々、デリカテッセンという老舗のハムが加わることもある。近所の別荘の婦人が、お手製のジャムを持ってきてくれることもあった。
朝食を済ませると私は少し母を手伝って、庭の草むしりやテラスの掃除をする。
時には自転車で遠出もした。
唐松の林を次々と抜け、広々とした草原を突っ切って、塩沢湖まで足を伸ばすこともあったし、がんばって坂道を登り美術館に行くこともあった。
勉強がはかどっていないことを時折母にたしなめられ、渋々テキストをひろげてみたりするのだが、課題はいっこうに進まい。
ふと気がつくと、テラスのテーブルから柵の向こうに広がる景色を眺めてばかりいる。どこにも出られない雨の日も、木々からしたたり落ちる水滴ばかりを追いかけてしまうのだ。雨を見るという行為は、それはそれで飽きることがない。
そんな様子をめざとく見つける母は、まるで警察官のようだった。取り締まられる私は、ばつの悪い顔をするしか術がない。
もっとも、英語のテキストも、ノートも鉛筆も、どうしたって私をしばりつけることはできないのだ。
母が立ち去ると私はほどなく立ち上がり、ポケットに少しのおこづかいを入れると、そっと表へ出て行く。
「赤い家」を背に別荘地をずんずん歩く。
いくつか角を曲がると、やがて突き当たりに万平ホテルが見えてくる。
木立の向こうにロッジ風の三角屋根の一部を目にするだけで、もう嬉しい気分だ。
私は走っていって、ロビーを抜けてまっすぐにティールームへ向かう。
お気に入りのテラス席に陣取ると、ほっとひと息ついた。
ここではおいしいアイスティーとケーキが食べられるし、母の小言からも逃れられる。読みかけの本も気兼ねなく読むことができる。
万平ホテルには足繁く通うことになった理由は、こんなところにある。
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そんなある日、私は偶然、万平ホテルでジョン・レノンと出くわした。
平日の午前中のことで、まったくめずらしいことに他には客の姿が見られなかった。
パッチワークのシャツに、小さな丸いサングラス。隣には長い髪の日本人女性。三つくらいの人形のようにかわいらしい男の子を連れている。
まちがいない、絶対にジョンだ!
そう思った瞬間、心臓が早鐘のように打ち始めた。
彼らは私の一つ先にあるテーブルでコーヒーを飲んでいた。
彼らが時々このホテルに滞在することは知っていた。でも、まさか会うなんて、思いも寄らなかった。
ジョンは傍らにいるヨーコの肩を抱き、ヨーコは息子のショーンの手を握っている。
ショーンははしゃいでぴょんぴょん飛び跳ねていたが、ヨーコがたしなめるとすぐにおとなしく席に戻った。
私はジョン・レノンに強い憧れを抱いていた。彼の曲が、どれだけ私を慰め淋しさを癒してくれたかしれない。
私は、懸命に読書を続けようとした。
じろじろ見たりしてはいけない、ちらちら見てもいけない。
ジョンとヨーコとショーンの休日を、邪魔したりしては絶対にいけない。
必死に言い聞かせたが無駄だった。
とうとう私は決意して、本を持って立ち上がった。
ほかには客がいないことを確認してから、そっと近づいていった。
できるだけ気に障らないようにサインを求めたつもりだが、実のところは何も憶えていない。私の意識は頭上のはるか彼方に去ってしまい、心臓の音だけが耳に響いていた。
彼は優しすぎるほどの笑みを浮かべながら、私の差し出した本の裏表紙にサインをした。 それは、サガンの『悲しみよこんにちは』だった。
題名を見て、ジョンがささやくように何か言った。
助けを求めるようにヨーコのほうを見ると、微笑みながら教えてくれた。
「センチメンタルがすき?」
私は本を抱きしめながら、林の中の道を走った。
そうすれば胸の高鳴りがどうにかなるような気がして、ひたすら走り続けた。
やがて「赤い家」が見えてきた。
私は中に入るなり、居間で読書をしていた父に出来事の一部始終を話した。が、父の返事があまりにとんちんかんだったので、私はぷりぷりしながら自室のドアを閉めた。
それから私は毎日のように万平ホテルのあたりを散歩した。けれど、もう二度とジョンに会うことはなかった。
あの美しい親子を、私はまるで捨てられた子猫のように恋しがった。
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1979年12月。FM放送のニュースが、ジョンの死を告げた。
私は信じることが出来なかったし、信じたくもなかった。
その後の夏も、私はよく万平ホテルのあたりを歩いた。時にはテラスで紅茶とケーキをとって読書をして過ごした。そうしていると、ジョンが家族を伴ってやってくるような気がしてならなかった。
私は本を読むふりをして、ジョンのことを待っていたのかもしれない。
もちろんいくら待ったところでジョンは来ない。
けれど、待つという行為を繰り返さずにはいられなかったのだ。
「赤い家」が売りに出されることを知ったのは、それから数年後のことだ。
持ち主がかなりの高齢である上、後を引き取る家族もないから、とのことだった。
いうまでもなく私は落胆した。「赤い家」は現実の生活に疲れを感じていた私を受け入れ、優しくなだめてくれる砦だった。
それが失われるということはどういうことなのだろう、と私はぼんやり思った。
「赤い家」に限らず、大人に近づくにつれそういうものをひとつひとつ失ってきたような気がする。
けれど私は、あの日の彼のほほえみや、避暑地の風を時折見つけることがある。ビルの合間や並木道の木漏れ日のなかに。
そんなとき、わずかながらも慰められるのだった。
(了)
※この作品はフィクションです。(初出 1998年)
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