灰色の瞳のイワン
その朝早く、私は六本辻の「カフェ・ミハエル」へ足を向けた。
まだ朝霧の残るからまつ林は、ひんやりと肌寒く、苔むした石垣は露に濡れている。いつもなら自転車で通る道を、あえて私は歩いた。
夏が来る度に軽井沢で気儘な日々を過ごしてきた。でも、学生時代の終わりと共に、それも終ろうとしている。
私は多少感傷的になっていた。そこに存在する、目に見えるものと見えないもの。それらを、ひとつ残らず胸に刻みつけたい気持ちで、私は歩いていたのだった。
「カフェ・ミハエル」は、三日とあけずに通っていた店だ。
雲場の池通りに面していて、テラスに降り注ぐ木漏れ日が心地よい。読書に飽いたり、サイクリングで疲れた時には必ず立ち寄ったし、特に何もない時でも、いつの間にか「ミハエル」を目指して自転車を走らせる自分を見いだすのだった。
テラスの一角で、ロシア風のお菓子と紅茶を前にひとときを過ごしていると、まるで自分が消えて透明人間になってしまったか、風景の一部に溶け込んでしまったかのような感覚に襲われる。それは不思議な穏やかさをもたらしてくれるのだった。
そんな中、客の少ない時をねらってイワンと雑談するのは楽しみなことだった。透明人間と化していた私が突然、存在を取り戻す。
イワンは、ロシア人の父親が夏の間経営するその店を手伝っていた。彼の母は日本人で、実家の果実園で働いている。
黒い髪に灰色の目をしたイワンは、日本に生まれ、日本人として育った。彼の容貌はロシア人そのものだったが、口から出る言葉は流ちょうな日本語だった。
夏の間しか会わないイワンとのつきあいも、もう5年になっていた。
開店前の「ミハエル」の前に立った私は、カウンターの向こうにイワンを見いだした。イワンはグラスを磨くのに夢中になっている様子だ。
私は含み笑いをしながら近づいていった。足音は、かぎりなく柔らかな苔に覆われた土へと吸い込まれていく。そのため、「おはよう」と言ったその声は、思いのほかイワンを驚かせてしまったようだった。
「ああ、びっくりした。早いね、今日は」
イワンは目を大きく見開いて言った。灰色の瞳に、からまつの緑が映っている。
「明日の朝、東京に帰るの」
私の声は、不自然なほど明るく響いた。しかし、イワンは気にも止めなかったようだ。
「そうだったね。もう、就職先は決まったの?」
「まだ。帰ってから、ゆっくり決めようかと思ってるところ」
「マイペースだね、いつも」
イワンは人の良さそうな笑顔を浮かべてそう言うと、再びグラスを磨き始めた。私は、繊細なつくりをしたイワンの手をぼんやりと眺めた。
「来年は、どうするの?」
作業を続けながら、イワンが私に訊ねる。
「わからない。就職したら、もうのん気にしてられないだろうし。たかだか2,3日の休みをここで過ごすのも、なんだかねぇ。でも、それがすっごく残念。働くのがやんなっちゃうかもしれない」
イワンは高らかに笑った。その声は木立の向こうへ消えていったあと、私の耳の奥に沈んで、こだました。
「一生、パパに食べさせてもらうつもりかよ」
「それもいいかもね」
私はイワンの笑い声に自分の声を重ねた。
「でも、イワンに会いに来るよ。今までみたいにのんびり出来ないけど。来年も、お店、手伝うんでしょ?」
イワンは「うーん」と唸って、せっせとグラスを磨く自分の手に見入っていた。
「ちがうの?」
イワンは磨いていたグラスをカウンターに置いて、私の目をまっすぐに見た。
「ひょっとしたら、モスクワに行くかも知れない。いや、行こうと思ってるんだ」
私は意表をつかれて、思わず目を見開いた。イワンが店からいなくなることなど、想像したこともなかったのだ。イワンがここにいることは、私にとって至極当然のことだった。そしてそれは、いつまでも変わらないものと勝手に思いこんでいたのだ。
しかし考えてみれば、私とさほど年齢の変わらないイワンが、将来何らかの理由でここを去ることがあったとしても、なんらおかしいことはないのだ。
「どうして、ソ連に行くの?」
私は彼に訊ねた。彼は父の祖国を訪れたことが、ほとんどなかったはずだ。
「いとこが、戦地に行ったんだ。アフガニスタンだよ。あまり会ったことはないけど、おばさんがどうしてるのか気になってね」
新聞もまともに読んでいなかった私は、アフガニスタン戦争についてほとんど知らなかった。テレビのニュースを見て、「どこかで戦争をしているのだな」などと思うくらいだった。
「僕が行ったところで、何がどうなるわけでもないんだけどね。僕は半分はロシア人だろ。でも、日本国籍だ。だから、たまたま戦争に行かなくて済んだんだよ。良かったと思うよ、戦争はこわいから。でも、僕と同じ様な歳のやつらが、いまごろ戦ってるんだと思うと、なんでか罪悪感を抱いてしまうんだ。僕は考えが甘いから、おばさんを慰めることで、罪滅ぼしになるとでも思ってるんだろうな」
「イワンのパパは、何て言ってるの?」
「好きなようにしろって。あの人はいつもそうなんだ」
私にはその時、イワンが突然遠く霧に隠れてゆくように感じられた。
「ソ連に行ってから、どうするの?」
我ながら馬鹿な質問だとおもいながら私はたずねた。
「わからない。世界中を旅してまわろうかとも思ってる。先のことが全然わからないんだ。それを探しに行くよ」
朝早い客が、店にぽつりぽつりと見え始めた。私たちは話を中断しなければならなかった。
「明日は、もう来ないから。イワン、元気でね。私、来年も来るから、憶えといて。帰ってきてたら、また会おうね。ソ連からでも、どこからでも、手紙ちょうだいね」
私は早口にそれだけ言うと、イワンの手に住所を書いた紙切れを押しつけた。
その後、イワンからロシアの美しい絵はがきが幾度か届いた。何ということのない文面で、戦争のことには触れていなかった。
旅行代理店に就職した私はめまぐるしい日々の中で、たびたび返事を出し忘れ、そのうちにイワンからのはがきは途絶えた。
時代は激しく変転した。
ソビエト連邦の崩壊を、イワンはどこで迎えたのだろうか。
「カフェ・ミハエル」は、今も変わらず唐松林を映して佇んでいるという。店のつくりも、あのころと何ひとつ変わっていないと風の噂に聞いた。
そこに行きさえすれば、あの唐松の道を六本辻に向かって歩いて行きさえすれば・・・。
しかし私が「カフェ・ミハエル」へ足を運ぶことは、ついになかった。
あのころの風景は、そこに変わらずあるようでいて、実はもう失われてしまった。
私が探しているものは、もう、あの場所にはないのだ。
どこか思いがけない場所で、唐松によく似た緑の色を目にすると、今もグラスを磨くイワンの姿が思い起こされる。
緑の風が行き渡る木立を映し出す灰色の瞳、繊細でつくりもののように美しいイワンの手、木漏れ日を浴びる白いシャツ。
そして、彼の高らかな笑い声は、私の耳の奥で優しくこだまする。
(了)