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怒りは悲しみの発露
カウンセリングやセッションなどで話を聞く機会がよくある。ほとんど人は感情的にならないよう努めて落ち着いて静かに語ってくれる。
私のもとに来るまでの間に、感情の波にのまれてしまったことも一度や二度ではないだろう。懊悩を超えて自身を抑制する姿は実に美しい。
そして、怒りを抱いていい、悲しければ泣いていい、ということをそっと伝えると、決壊したように涙がぽろぽろこぼれる。その姿もまた美しいものだ。
もっとも、怒りや悲しみは過ぎれば人をくすませてしまう。
私は武家の血筋ということもあって、負の感情に対して極めて注意深くあるようになってしまった。
「なってしまった」と述べるのは、そうしたあり方が矜持であること半分、もう半分は重荷となっているからだ。
そろそろ荷を降ろしても良いのではないかと思うようになったのは、いつからだろう。もっと素直に怒り悲しみ、妬み、憎しみ、寂しさといった感情を味わっても良い。それができる強さを、そろそろ備えてはじめているのではないかと思える。
そうなのだ。
負の感情を素直に味わうには、強さが必要なのだ。
こうした感情に振り回されるのは弱さゆえのことで、だからこそ忍んで鎮めるだけの強さを備えていくことが求められる。それがある程度身についたなら、今度は感情をきちんと受け入れる強さへと段階を上げていくことになるのだろう。
感情を抑制するのは得意だ。
怒りという感情はもうどこかに置き忘れているのではないかと思えるほどに。私の怒りはたいてい社会や世界など大きなものへの「悲憤」だった。
しかしそれはもしかしたら、個人を置き去りにしていることになっていたのかも知れない。
勇気を出して怒りと向き合ってみると、やはりと思うことがある。
怒りの背後には悲しみがあり、さらにその根底には寂しさがある。
目の前に怒っている人がいるとしたら、同じように怒るのではなく、その後ろにある悲しみや寂しさに心を向けてみると、争いにはならないかも知れない。
怒りは人にぶつけないことだ。そこはやはり譲れない。
けれど自分に怒ることを許してほしい。
その時、怒りの背後にある悲しみと、根底にたゆたっている寂しさを、深く見つめてみたい。
それはずいぶんつらいことにちがいない。
多くの場合、がまんにがまんをかさねて閉じ込めてきた悲しみにちがいないからだ。そして、誰も気づいてくれないどころか、ほかでもない自分自身が目を向けてくれないことへの寂しさは、もはや言葉にならないものだ。
人が、ほんとうに悲しみにおそわれた時、ただ泣くほかない。
悲しみが深すぎれば泣くことさえもできない。
あれやこれやと原因やきっかけを語りはするけれど、本当は「理由のない悲しみ」であって、ようやく出口を見つけて発露したのだ。
怒りがこみ上げてきたら、静かにその感情を味わってみよう。
何十年と生きてくれば、味わえるだけの強さは備わっている。安心して、ひとり静かに怒りと向き合えばいい。
そしてできることなら、「よく出てきてくれたね」と怒りに向かって伝えて欲しい。「ずっと出られなかったのだね」と。
そうすればその奥にある悲しみや寂しさが、少しは和らいでいくかも知れない。
怒る人は、悲しい人だ。寂しさを抱えている。
そして誰もが悲しみと寂しさを抱きしめながら生きていると思えば、涙もあたたかくやさしいものとなるだろう。
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