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暮れゆく空とフリージア
ありふれた日常のなかに、残しておきたい風景がある。
今日のそれは、暮れゆく空とフリージアだった。
記憶の彼方に去って行く前に、切り取っておきたい。
日がな一日こもりきりで過ごし、用事を済ませようと出かけたのは、いいかげん午後五時になろうかという頃だった。
冷たい風が強く吹いていて、さっさと用事を済ませて帰らなければという想いが先立つ。
支払いを済ませスーパーに立ち寄ると、春の花がたくさん出ていた。
生花のコーナーは入り口すぐにあるから、いつも花を選んでから食材を買う。
桃に菜の花、チューリップ、ミモザ、仏様用の菊花はいつもの通り。
少し迷って、黄色いフリージアの花束を二束、手に取った。
まだ寒い春先に咲く花は、どれも高貴な香りがする。
フリージアもご多分に漏れず、やさしく清潔な香りを放つ。
帰り道、長い坂道はうっすらと闇が忍び寄っていた。
風はいっそう冷たく、強く吹きつけてくる。
見上げると、藍色をうんと薄めたような空と、続く彼方にわずかな陽の名残が広がっていた。
淡く暮れゆく真冬の空は、なんと心もとない気持ちにさせるのだろう。
私は花束に顔を埋めるようにして、その香りを吸い込んだ。
安心な、優しい香りが鼻孔に満ちてゆく。
嬉しい気持ちになって、透明なセロファンに包まれた花を、たそがれの空に向けて高々と掲げた。
その時、思いも寄らぬ景色が見えた。
どこまでも淡い藍色の空と、陽の色を失いつつある西の空に、鮮やかな黄色。
あまりにもきれいで、私は何度も花を掲げた。
冷たい風が吹きつける。フリージアが香る。
その時、フリージアは私の心を最も理解してくれる、やさしい友だったのだ。
「喜びにも悲しみにも、花は我らの不断の友である」
「花なくしてどうして生きて行かれよう。花を奪われた世界を考えてみても恐ろしい」
『茶の本』の一節が浮かんでくる。ふだんは「普段」ではなく「不断」なのだ。
ようよう坂を登り切って、重たい荷物を持ち直し、フリージアをそっと抱き直した。
空には星が瞬きはじめていた。
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![石川真理子](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/171879645/profile_f066ecb92b2f4af38fe95e861517135f.jpg?width=600&crop=1:1,smart)