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猫に無礼は許されないの。

 猫が誇り高い生きものであることは、猫好きならばよくわかっていると思う。
 それゆえ高貴な人に対する接し方が厳然としてあるように、猫にもそれがあるのだ。

 河井寛次郎記念館を訪れたのは一月半ばのことだった。ここには懐かしい猫がいる。また会えると思うと心が躍った。

 やはりいた。
 猫の居るところは必ず快適な場所だ。古めかしいファンヒーターの前で温風に煽られている。カーヴを描く細いヒゲが揺れても、ものともしない。泰然自若とそこにいる。

 ここで「わあ、かわいい!」などと奇声を上げて駆け寄るなど絶対にいけない。言語道断もいいところ。
 3メートルは間合いを取り、ただ黙って静かに佇む。じっと見たりしないで、「別にそこまで興味があるわけじゃないのよ」という態度を、こちらもとるくらいがちょうどいい。けれどそれは心の中に愛を抱かないことではない。むしろ愛しいがゆえに距離を尊ぶのだ。

 『星の王子さま』でキツネが語っている。
 親しくなりたいなら、いきなり近づいてはいけない。最初は少し離れたところから見るだけだと。そして翌日は少し距離を縮める。その翌日も。
 そうやってだんだんと近づいていくうちに、やがてかけがえのない存在になっていくのだと。
 私はこのキツネの話が大好きだ。
 そんなふうにして、たがいを大切に想えるようになるなんて、なんて素敵なんだろう。

 ずいぶん昔、ムツゴロウさんのテレビ番組を観ていたときに、ライオンへの近づき方について語られていた。それは猫にも同じ事が言えるとも。
 猫は親しみを表わす際、眼を細めて相手を見て、それからふっと反らすのだという。それが心を許している態度なのだ。相手に「嫌われているのか?」と思わせるような態度が、逆に親愛の情を示している。このことを知って以来、私は猫に対してこの礼を示すことを怠らなくなった。
 少しだけ距離を縮めてから、眼を細めて彼女を見て、おもむろにそっぽを向いた。

 彼女もまた同じようにそっぽを向く。ちゃんとコミュニケーションがとれはじめたのだ。


 猫に話しかけるとき、猫なで声を出すのもいけない。無礼ではないか。老人に赤ちゃん言葉で語りかけるのと似ている。
 誰だってプライドを傷つけられるのはイヤなものだ。ならば相手のプライドを守らねばならないことは自明の理である。
 猫はうるさい声が大嫌いだから、おとなしく静かに語りかけるのがいい。



 わたしよ。真理子よ。
 久しぶりね。
 憶えてる?
 もうずいぶんになるかもしれないけれど。
 元気そうで、安心したわ。

 彼女がよそを向いていても、耳がこちらに向いているから、ちゃんと聴いているのがわかる。応じているのだ。



 わかってるわ。という顔つき。
 心を許したとき、こうして目を開いて顔をよく見せてくれる。


 ただ、カメラを向けられているのは、ちょっと気に入らなかったみたい。
 「なにこいつ顔」になっている。

 ゆるしてね。
 あなたがとても美しいからよ。


 もう間合いは1メートルにも満たない。
 猫になってそっと近づき、もし、触れたいと思ったら、それも断りを入れた方がいい。

 おてて可愛いね。
 さわってもいい?


 そして、本当は撫でてもらいたいことをやっと知る。
 「仕方がないわね」という顔をあくまでもする彼女の本心を、静かに汲み取ってあげれば、だんだんと慕わしさが伝わってくる。



 ほんとうは、甘えたかったのね。
 わかってたわ。
 外は寒いのよ。
 こうしてあたたかい場所で触れあうのは、しあわせよね。

 体をあずけんばかりに重みをかけてくる彼女の、ふわふわしたぬくもり。
 こうなると、今度は立ち去るのが申し訳なくなる。

  猫を愛した作家と言えば、大佛次郎がまず浮かぶ。『猫のいる日々』という随筆もある。
 鎌倉には今も大佛次郎の旧宅があるが、生前、夫婦と共に十数匹の猫が暮らしていたという。(今だったら近所からどんな苦情が来るか解らない)
 あまりにも猫が多すぎるので、食事も大変なことになる。奥様はついに猫の定員を決めてしまった。確か14匹までだったと思う。
 14匹の猫たちは、食事時になるとずらりと器を並べていっせいにごはんを食べる。14匹の猫に14匹の器。横浜の「港の見える丘公園」にある「大佛次郎記念館」に行くと、その光景が写真で残されている。
 あるとき、大佛次郎が猫たち数えると、15匹並んでごはんを食べていた。それを指摘したところ、奥さんはこう答えたそうだ。
「一匹はお客様です。お食事が終わればお帰りになります」

 部類の猫好きだった大佛次郎は、「黙っている猫」にこのように綴っている。

 猫は冷淡で薄情だとされる。そう云われるのは、猫の性質が正直すぎるからなのだ。猫は決して自分の心に染まぬことをしない。そのために孤独になりながら強く自分を守っている。用がなければ媚びもせず、我が儘に黙り込んでいる。それでいて、これだけ感覚的に美しくなる動物はいない。冷淡になればなるだけ美しいのである。

「黙っている猫」大佛次郎

 そうなのだ。
 私が猫を愛するのも、その孤独さ孤高さのためだ。どこまでも正直であれば、孤独にならざるを得ない。媚びることはあっても自分の心に嘘をつくことはない。迎合という選択肢は、ゼロなのだ。
 冷淡に見えるかも知れないけれど、猫はひとたび心を許した相手には手放しで甘える。じっとそばにいて動かないこともめずらしくない。なめらかでやわらかな四肢を添わせて離れない。
 でも、たとえば、何らかの事情があって、その相手が離れていったとしたら・・・自分を置いていったとしたら、猫はまるで何事もなかったかのように、そんな相手は最初から存在していなかったかのように、そこに静かに佇む。かつてぬくもりを分かち合ったその場所に、ただひとり残る。だから猫は「人」ではなく「家」に着く、などと言われるのだ。
 冷たい風が吹いてきて、一瞬、悲しげな顔になったとしても、すぐに眼を細めて、ちょっと肩をすくめたら、おもむろに毛繕いでもするのだろう。

 猫の最期も見事である。
 ある日、忽然といなくなる。
 死期を悟った猫は、最後まで孤独を貫いて、どこかでひっそりと息を引き取る。
 骸を見られたくないのだろう。美しい姿だけを憶えていて欲しいからだ。
 だから猫が居なくなったとき、しばらく探してもいいけれど、どうしても見つからない場合は、そっと手を合わせることだ。
 そして在りし日の美しい姿を決して忘れず憶えていることだ。
 猫との関係は、そうしたものだと心得て、覚悟することもまた大切である。

 こちらからからも執(しつ)こくしないで、そっと放任して置いてやれば、猫はいよいよ猫らしく美しくなって、無言の愛着を飼主に寄せてくるのである。多少なり、こうした沈黙の美しさが感じられるひとならば、猫を愛さぬわけはないと思うのである。


 写真:魚住心






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石川真理子
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