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生かしていただいてありがとうございます

 昨晩、「生かしていただいている」ということをつくづく感じた。
 夜8時過ぎだったろうか、パソコンに向かっている時、ふいに妙な感覚に襲われた。
 寒さのせいなのか、疲れだったのか。めまいに近いけれどグラリとするほどではない。頭の中が急に重くなるような、何かが詰まるような、軽く圧迫されるような感覚。 忙しく動き回っていたら見逃してしまうかもしれない、それくらいの微妙さだ。
 気を確かにもって自己観察しながらそれが過ぎるのを待った。おそらく3分にも満たない時間だったのではないかと思う。
 その中でふと急逝した中山美穂さんのことが浮かんだ。同年代だから驚いたし、娘も心配して私の身を案じるメッセージをよこしたりした。
 ほどなく妙な感覚はおさまった。
 
 いずれは死を迎えることはわかっているし、それがいつかはわからないことも理解しているつもりだ。
 だけど私は今死ぬわけにはいかない。どうしても生きていたい。
 そう強く思った時、

 生かしていただいてありがとうございます

 この言葉が、かつてないほどずしりと真に迫った。

 生きているという自覚なしに生きるのが当たり前になっている現代、死を意識しながら生きたとしても、なかなか実感までは至らない。
 よし至ったとしても、その「実感」にも段階がある。
 我ながらそれなりに段階を踏んできてはいると思っている。日々、「今日が最後の日なら」ということに、少なくとも1~2度は意識を向けているのだから。それも、もう何十年も。
 けれどこうして身体的感覚を伴うと実感のレベルは変わる。
 すると、「生きていたい、死ぬわけにはいかない」という想いも、強く立ち上がるのだ。

 生きていたいという想いと、生かされていることへの感謝は、どうやら対になっているらしい。

 もしかしたら、こんなにも「生きていたい、今絶対に死んではいけない」と想ったことは、かつてなかったかもしれない。
 だからだったのだ。
 生かしていただいている。なんというありがたさだろう。生かされている命を生きることは、もうそれだけで確かに奇跡のほかなんでもない。
 この想いが強化されたのは。

 ひとはいつどうなるかわからない。そのことをわかっているようでいない。
 つくづく生きているのではなく生かしていただいているのだと思えば、自然と手が合わされるものだ。

 生かしていただいて、ありがとうございます。


 写真:魚住心


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石川真理子
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