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3 梅すだれ-甲斐の国
数日後、勘助の発疹は全身に広がった。意識は朦朧となり寝込む勘助の横で「父ちゃん」と涙声のお千代だが、心のどこかで(母ちゃんと婆ちゃんが帰って来たら何とかしてくれる)と信じている。
幹助の発疹は数日で消えた。しかし母ちゃんも婆ちゃんも豊代も帰っては来ない。
村を襲った感染病。それは五月に始まり年の暮れまで続いた。生き残ったのは半分ほど。八十三人いたのが四十一人にまで減った。どの家も失った家族への悲しみに暮れながら、暗く寒い冬を過ごした。
収穫の時期に寝込む者が多くて作業などできなかったから、米の収穫は例年より少ない。少ないというか、ほとんどないとも言える。それでも食料に困ることはない。村には非常時用の蓄えがあるからだ。
いつのことか誰も知らない遠い昔、この村は水の中にあった。「大泉」と言う名前のとおり、ここは大きな泉だったのだ。しかし湧いていた水は枯れて干上がってできたのがこの村で、今も西の山からは水が湧き出してくる。その水は川となり村へ流れ込んでいるのだが、これまたいつのことか、その川が氾濫して村が水没したことがあった。その教訓として南の高台に家を構えるようになったと言われている。
伝説のような言い伝えだが、村の誰もが信じている。いつまた水に浸かってもいいようにと南の高台の上に穴を掘り、数年分の米を貯蔵している。水害用の備蓄であるが、感染病が蔓延したこの冬はこの米を掘り出して食べることになった。
大泉の村は四方を山に囲まれているおかげか、真冬でもそれほど冷え込むことがなく雪は降らない。しかしこの年だけは違った。悲しみに暮れる村人の心を凍らせるように、白い雪があとからあとから村に降り注いだ。村人たちは家の中に籠るしかなく、いつもよりも少ない家族と春が来るのを待った。
お千代の家では豊代のいない静けさが異様に寂しさを募らせる。父ちゃんと松之助しかいない家の中で、三人の口数は少ない。お千代はひたすら母ちゃんと婆ちゃんが帰って来るのを待った。しかし、祝うこともない静かな正月を過ぎたころから、もう帰って来ないのだとわかり始めた。それで笑わなくなった父ちゃんに、母ちゃんや婆ちゃんのことを尋ねることを止めた。そんなお千代に習ってか、松之助も「かあちゃん」と言わなくなった。
やがて白く閉ざされた村に、雪解けの水の流れる音が聞こえてきた。黄色い福寿草が塞ぐ村を励ますように元気に咲き始める。ついに春が来たのだ。
悪夢のような時間は過ぎた。誰もが暖かな春風に元気をもらおうと外に出る。生き残った者たちには、以外にも高齢者が多かった。六十一歳以上の年寄りは皆生きている。幹助の母親は六十六歳。生き抜いた村民の一人だ。その婆ちゃんが言うには、
「忘れもしねえ。この病は六十年前にも村を襲っただよ。その時もたくさんの人が死んだ。わしも罹ったが治っただ。この病は一度罹ったらもう罹んねえ。年寄りばっか生き残って、なんともなんねえだあよ」
お千代の母方の婆ちゃん、喜代は五十六歳だった。前回の感染病発症の後に生まれてきていたから、初めての罹患だった。年寄りや赤ん坊、そして妊婦は死ぬ確率が高かったから、年老いた喜代も、生まれつき体の弱い紗代も、幼い豊代も、この病に打ち勝つことはできなかった。
とは言え、残った村人たちは様々だ。子どもだけを失った家もあれば、年寄りと子どもが生き残った家もある。幹助の兄夫婦も子どもを置いて死んでしまった。同居している婆ちゃんと息子二人が残された。
幹助の兄は幹助よりも十四歳年上だった。三十一歳の幹助は、兄の二人の息子、二十四歳と二十一歳の甥たちとのほうが年が近いこともあり、甥たちと兄弟のように育った。
実家を心配する幹助だが、上の甥っ子はこれを機に恋仲にあるアヤと結婚することにした。悲しんでばかりではいられない。新しく芽を出す花のように、前向きに生きようと頑張っている。
ところが幹助はそうはいかない。村全体が空元気とも言える威勢を出して農作業を始めたというのに、自分の畑の種まきも村人全員が協力してすることになっている田植えさえも、何もしようとしない。生きる気力を失ったように、家の中で寝転がったまま動かない。紗代がいなくなったことから立ち直れないでいる。
しかしお千代は違った。悲しみを乗り越えようと動き出す村の中で、じっとなんてしていられない。母紗代の二番目の姉、夏世のところへ通って畑作業を手伝った。夏世は夫婦で生き残っている。子どもは四人のうち二人目の次女と三人目の長男三郎吉が亡くなり、長女と末子である二歳の次男が残った。
長女が末の子のお守りをしているのを見ると、お千代は豊代を負んぶしてあやしていたことを思い出す。もう自分にはあやす豊代がいないのだと悲しくなるが、沈んでなどいられない。婆ちゃんも母ちゃんもいない今、自分が婆ちゃんと母ちゃんになって働くのだと、意気込んだ。
畑の草を抜いて土を耕し、村で作っている堆肥をまいて種を蒔く。夏世の畑を手伝いながら、自分の家の畑で同じことをした。見よう見まねだけど、なんとか種蒔きはできた。それが終わると、村総出で行う田植えに参加した。
男たちが田を耕して、女たちが苗を植える。その植える苗は、親田で育てたもので、男たちが本田まで運んでくる。それを子どもたちが田んぼの中で待ち構えている女たちのところへ運ぶのだ。
いつもの半分しかいないから人手不足は否めない。日数は例年よりもかかるが、いつもと同じ量を植えようとみんなで毎日頑張った。しかし幹助は何もしない。家の者が誰も田植えに参加しなかったら秋に収穫した米を貰えないではないか。お千代は一家の代表として田植えに参加した。
村での食事は朝晩粥を食べるのが通常である。しかし、この田植えの季節は米を炊いて食べる。労働時間が長くて体力を使う田植えだから元気の素になるように、どの家も米を炊いて握り飯にして栄養補給をするのだ。
ところが、お千代の家ではそうはいかない。まず朝の粥もない。朝お千代が働きに出かける時、幹助はまだ寝ている。一日働いて夕刻に家へ帰ると、かろうじて幹助が粥を作ってくれている。しかしその粥も日に日に薄くなり、とうとう重湯になった。米はドロドロに溶けていて実がないのだ。
汁をすするだけの日が続き、次第に腹が減ってふらつくようになってきたころ、夏世が気づいた。
「お千代、顔色が悪いだよ。働きすぎずら。ちょっと休め」
「腹が減ってるだけだ」
「食べてねぇのか?」
「汁みたいな粥を飲んでる」
それで夏世はお千代の握り飯も作ってくるようになった。でもお千代は食べようとしない。
「松之助と半分こするだ」
松之助もお腹が減ってぐったりしている。話さなくなってしまい声を聞くこともなくなった。
それで夏世は松之助の分も作るようになった。毎日お千代に握り飯を二つ渡した。しかしそれでもお千代は食べようとしない。
「父ちゃんと分けるずら」
呆れた夏世はお千代の家へ行った。
「幹助、米はどうした?春に二袋配給されてるはずずら」
土間に置いてある米袋を見ると、二つのうち一つはすっからかん、もう一つは半分も入っていない。
「おまえ、自分だけ食べただか?働きもせんと!」
怒鳴られてもヘラヘラと機嫌のいい幹助はなんとも臭い。酒の匂いをプンプンさせている。嫁を失い絶望しているのかと思いきや、なんと大切な食料である米を使って酒を造って飲んでいるのだ。
この悪行に怒り狂った夏世は家に帰って夫に言いつけた。すると夏代の夫、次平が怒鳴り込んできた。
「おまえ酒を造っただか。この阿呆め」
そう叫ぶと同時に幹助を殴る次平。体の大きな次平に殴られた幹助は床を転がり壁にぶつかった。倒れるのではないかと思うほどに家が揺れ、その恐ろしさに松之助が大声をあげて泣き出した。松之助の泣き声で加速するように、次平の怒りは頂点に達した。
「悲しいのはお前だけじゃねえぞ。いつまですねてるだ。この甘ったれめ」
次平は幹助の胸ぐらをつかみ、また殴ろうとした。
「やめてけれ」
お千代が次平の足にしがみつく。
「死んじまう。父ちゃんも死んじまう」
泣きながら叫ぶお千代に我に返った次平は肩の力を抜き、手を離した。
「お千代と松之助はうちで預かる。おまえにはまかせておけねぇ」
そしてお千代と松之助は夏世の家に連れていかれたのだけど、すぐに松之助が家に帰りたいとぐずり出した。お千代もそうだった。父ちゃんを一人にしておくことなんてできない。そんなことをしたら母ちゃんと婆ちゃんに怒られる。そう思う千代も帰りたいと頼んだ。
「あんな家に帰すことなんかできねえ」 と突っぱねられたが、夜になっても寝ようとしない二人に夏世は根負けし、家へ送っていった。
「お千代ばかりに働かせて、恥ずかしくねえのか。紗代が泣いてるだ」
幹助を怒鳴りつけることだけは忘れずにしておく夏世であった。
つづく
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