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16 梅すだれ-天草
冬のある朝。いつものように猿彦は浜でみんなが来るのを待った。ここには土を運ぶ台車が置いてある。一台の台車に少なくとも四人が必要で、人数が多ければそれだけ積む土の量も多くできるから、六人で一台を運ぶことが多い。
パラパラと人が集まり出して、一台、二台と次々台車が出て行くのだが、猿彦は浜に留まり山へ行こうとしない。なぜなら松之助が来ないのだ。いつも先に来て猿彦のことを待っている松之助が。
(何かあったとか?)
心配になり出した時、のそのそと松之助が歩いてきた。その左頬に赤い痣をこしらえて。
「その顔どうしたと?」
猿彦はもちろん、そこにいたもう二人も驚きの表情で松之助を見た。五本の指のあとがくっきりと付いているのだ。どう見ても平手打ち。松之助は見てくれるなと言いたげに顔を背けた。
「とっちゃんに殴られたけん」
ぼそりと言ったきり無言で海を見つめている。
兄弟げんかでもして父親に殴られたのだろうと、昔の自分を見るような思いのする猿彦である。
もう一人が来て五人になった。いつもならもう一人来るのを待つのだが、この気まずい雰囲気にじっとなんてしていたくないのだろう。「行こうや」という松之助の言葉に動かされて、台車を引いて山を登った。
登る最中も山で土を乗せている間も、松之助は何もしゃべらない。いつもならケラケラ笑いながら面白おかしい話をしてみんなを笑わせると言うのに。異様な空気を感じる誰もが腫れ物を扱うように松之助には話しかけない。しかしいじけているようにも見える暗い雰囲気の松之助に、猿彦はふと雲十から聞いた十の字の話をした。
クルスとは過去も未来もない、今という完成された世界を表すのだと。
そうしたところ、その坊さんに会いたいと松之助が言い出した。それで、その日の作業が終わると松之助を連れて夕刻の読経へ行った。
松之助を見た雲十は嬉しそうな顔をした。また若い者が来た。しかも如何にも悩んでいる顔をして。
読経が終わると雲十は二人を暗い本堂から外へと連れ出した。この日は十三夜月。満ち切らないけれども大きく膨れた月は闇を破る光を放っている。本堂の周りの軒下の廊下に三人は座った。
雲十は外を向いて月を正面から浴びている。その左側に猿彦と松之助が雲十を向いて横に並んだ。
「その顔はどうした?」
にこやかに問う雲十に松之助は憮然と答えた。
「とっちゃんに殴られた」
「そうか。なんでぞ?」
しばし無言で俯く松之助であったが、暗闇を切り開くように射す月の光が閉ざした口を開かせた。
「伴天連の会に行ったんがばれたけん」
ふぇっと変な音を出して猿彦は息をのんだ。益田四郎に憧れているのは知っているが、松之助が吉利支丹だなんて寝耳に水だ。禁教令が出ている今、吉利支丹だとばれたら捕まえられるどころか殺されてしまう。最近も天草の東の地方で絵踏が行われ、一家が皆殺しにされたと聞いたばかりだ。
「おぬし、吉利支丹か?」
「・・・」
松之助は答えない。答える代わりにこう尋ねた。
「クルスが名まえに入ってるんか?」
「十の字をクルスと言うなら、そうよな。しかし隠れ吉利支丹の寺ではないぞ。ここは阿弥陀様と信心の場ぞ」
豊臣秀吉の伴天連追放令、それに続く徳川幕府の吉利支丹禁教令で切支丹たちは公に信仰ができない。信仰を隠すために吉利支丹たちは寺の檀家となるが、その寺には十字架が隠されている。手を合わせた仏像の胸には十字架が下げられていて、合わせた手を開けば十字架が見えたり、石塔にクルスが彫られていたり、門の装飾にクルスが混ざっていたり、吉利支丹信仰を取り入れた隠れ吉利支丹の寺というものがあるのだ。
ご院主の名にクルスが使われているのだから、松之助がこの寺を隠れ吉利支丹の寺だと思って当然である。
「クルスの話を猿から聞いたけん。昔でもない、先でもない、今しかないて。でもここへ来たんはとっちゃんに連れてこられたからやけんね。こんなとこ来とうなかったんや。わいは伊予で楽しゅうやってた。とっちゃんは天下取り気分でおるけど、わいは囚われのまんまや」
「伊予に惚れた女子でもおったか?」
思いもかけない雲十の返しに松之助は顔を赤らめた。艶やかな黒髪のお藤を思い出したのだ。見透かされた恋。慌ててかき消そうと父親への不満を声高にぶちまけた。
「とっちゃんはほんに勝手やけん。我慢ならんのじゃ。なんでこんなとこに来たんか。来たきゃ自分だけ来ればええけんね。わいたちまで巻き込んで」
「おぬしが若いのに人をまとめてようやっとるのは聞いておるぞ」
荒く息巻く松之助の顔が緩む。
「わいは山を動かしとるけんイエスさんが言うたんや。『山よ動け』て心の底から思えば山は動くて」
「そうか。仏陀様はこう仰ったぞ。心がすべてを作り出すと。堂の外で牛が暴れていると言って弟子たちが出て行こうとした。そうしたところ、牛なんぞおらぬ、その牛は乱れた心が作り出しておると仏陀様は仰ったそうだ。おぬしも牛を作り出してはおらぬか?」
つづく
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