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「智慧」については言葉で表現するのが困難な可能性 #思索のメモ

前回、前々回と同様に#思索の備忘・メモ

今回のBGMはブクステフーデシャコンヌ



霊性があるとした場合

・この瞑想する人noteでは、もし霊性なるものがあるとする場合には、それは智慧・慈悲とした方がよいのではないかとしている。

関連note:関連note:霊性と智慧と慈悲。水瓶座の時代(アクエリアン・エイジ)?


・また霊性は、生物学的に神経生理的に、人間に根ざすものかもしれないとしている。
もちろん生物学的に人間に根ざすという場合には、―― この物質的な人体に関しては ―― 進化の過程で霊性と呼んでもよいようなものが発揮されるようになったということ。

・進化生物学、進化心理学などの唯物的な観点では、宗教や信仰そしてこの霊性というのは、進化の副産物ということができるだろう。

・超越的な信仰の立場だと、この物質的な人体に霊性が発揮されるというのは、そもそも人間というのは霊的な存在だからだと主張できるだろう。


「智慧」は言葉では表現できない可能性

・ 智慧・慈悲である霊性が生物学的にも人間に根ざすとする場合には、とくに「智慧」に関しては、言葉によって客観的・ドグマ的に言い表すことはできないのかもしれない。

・智慧に対応する意識の体験や活動はあったとしても、「智慧とはこういうものである」とする客観的なドグマを形成することはできないのかもしれない。

・これは、人間の意識ー神経生理においては、「衝動」「意識の働き」のようなものとして存在するのかもしれない。
つまり「超越への衝動」のようなものとして。
意識の体験・理解や駆り立てる衝動、個々人的な理解のようなものとして経験されることはあっても、客観的にドグマ的に存在するというものではないかもしれない。

・そのため智慧について、これを「縁起・空性」と言う人や、「ワンネス」という人や、「普遍的な愛・意識」、「アートマン、ブラフマン」という人がいても、少なくともこの瞑想する人noteにおいては、間違っている・正しい・あーだこーだ言うことでもないのかもしれない。
 もちろん、とくに仏教の中観帰謬論証派の信奉者は「アートマン・ブラフマンなんてとんでもない!」と言うだろうけど。