『魔境』の話① 瞑想・ヨガ・生命エネルギーの実践における魔境
今回は瞑想などの副作用に関するnoteです。
これについては現時点ではまだまだ中途半端で未熟なので、さらなる思索のためにも備忘録として記録しておきます。
副作用に関しては以前から触れてきました。↓↓
関連マガジン:瞑想のリスク(副作用、危険性)
副作用(魔境)は本当にあるのか?注意すべきなのか?
今では瞑想、マインドフルネス瞑想が広く関心を持たれるようになっています。
ヨガ教室やフィットネスクラブ、ジムなどでも瞑想専門コースが設けられることもあるようです。
このように広く行われるようになった瞑想には副作用の危険性はあるのでしょうか?
様々な意見がありますが、瞑想には副作用はあると私は考えています。
ただ、副作用リスクの高い人というのは、瞑想に熱心な人、つまり継続的に真面目に瞑想する人、長時間の瞑想する人、本格的な瞑想リトリートに参加するような人に主に限られるだろうと思っています。
他には素質・体質的に敏感な人、心身に負担のある不自然なやり方で瞑想する人、心身が不安定な状態で無理に瞑想する人、あとは「神秘体験のための瞑想」「霊的存在や宇宙存在とのチャネリング瞑想」「チャクラ、超能力開発の瞑想」など、スピ系の偏ったものばかりに手を出すような人などがリスクが高いと思われます。
しかし大部分の人は心配はいらないと思います。
長時間の瞑想はしないだろうし、変なスピ系瞑想もしないだろうし、そもそも、いろいろとネットなどで評判を聞いて瞑想に興味を持って始めても、三日坊主で終わることが多いと思うので、副作用の心配は必要ないと思われます。
魔境(副作用)の性質
アーサナ(体操)メインのヨガでも事故や怪我などのリスクがあります。
中には椎間板損傷や骨折などの重大なものもあります。
関連note:【ヨガの分類①】健康法のヨガ。リラクゼーション、整体効果、瞑想
このnoteで述べる瞑想の副作用・リスクというのは、そういった身体的な怪我、事故とは違ったものです。
主に、精神や神経生理への悪影響といったものです。
「魔境」「入魔」です。
魔境の源
かなり思索が未熟なものになりますが、魔境の源として現時点で考察しているのが、主に以下のものです
・瞑想それ自体
・人間の意識それ自体
・神秘体験、宗教的体験、(クンダリーニ症候群など)
・精神世界への過度な関心・没頭
・エゴ
瞑想それ自体
瞑想というのは、動作のともなうものもありますが、一般的にはリラックスして座ってジッとしているものです。
日常生活の他の活動と比べると、弛緩、不活性の状態です。
これによって「瞑想によるタマス」とでも表現できそうな状態になり得ると思っています。
気分・気力の落ち込み、うつ状態、自立神経の不調、睡眠の質の低下などが生じるかもしれません。
関連note:瞑想と「タマス」、太陽と月の気道
ただ、瞑想が弛緩に偏るものかどうかについては、異論があり得ます。
ある程度慣れた人の場合には、瞑想による活性も体感できると思われます。
あと瞑想の種類によっても違いがあると思われます。
たとえば慈悲の瞑想などは、活性の要素が強めだと思われます。
しかしなんであれ初心者や慣れていない人の場合には、特に無理して長めの瞑想をすると、タマスの状態に陥りやすいと思っています。
人間の意識それ自体
スピ系、精神世界、瞑想系の情報に「人間の意識というのは、自分自身が気づいている以上に広大であり、その広大な意識の中には善いものも、悪いもの、未浄化のものもある」ということが言われています。
瞑想によって、その意識の中にある悪いもの、未浄化なものや混乱させるようなものが表面化・活性化するといったことがあり得るのかもしれません。
意識の内部にあるもの、無意識からの影響力によって、精神や神経生理の状態が不安定になるというのがあるのかもしれません。
関連note:生命エネルギーと無意識
神秘体験、宗教的体験、クンダリニー症候群。精神世界への過度な関心・没頭
瞑想や特殊なヨガ、密教の行法などによって、神秘体験(宗教的体験)をすることがあるとされます。
この神秘体験というのは、他の誰かの信仰体験を読んだり聞いたり、教義を学んだりすることとは違って、自分自身の生々しい「直接体験」であるため、影響力が深く甚大なことがあり得ます。
神秘体験がパーソナリティ、人生観や価値観、認知、思考、想像力の広範囲に影響して魔境に陥る可能性もあると思われます。
オウムの問題についてのものを読むと、しばしば目にすることです。
密教的な実践、クンダリーニ系ハタ・ヨーガ、内丹(仙道)、チベット密教(の特に究竟次第)などでは、生命エネルギーの混乱による心身の不調があり得るとされます。
これも魔境に分類されるものかもしれません。
こういった生命エネルギー系の実践は、いろんな人がいろんなことを言っているのですが、「リスクと隣り合わせ」と言う人もいます。
症状が軽いものから重いものまでいろいろとあるとされます。
とくにひどいものの場合には「クンダリニー症候群」と呼ばれることもあります。
このクンダリニー症候群と言える程のものは、神経生理の混乱とパーソナリティ障害の組み合わさったような重めのものだと思われます。
関連note:【密教】生命エネルギー体験の副作用。退火功、軟酥の法などの対処法
また神秘体験の有る無しに関係なく、スピ、精神世界にのめり込み過ぎて、現実を軽視してしまうような状態も魔境と言えるでしょう。
エゴ
エゴと魔境については、特に思索がほとんど進んでおらず、述べるのが難しいです。
古今東西の精神性や霊性といったものを重んじる伝統においては、このエゴ、自我・個我への執着や耽溺というのは、非常に深刻な問題とされています。
ひょっとすると人間は本能的に「自己・個我を超越したい」「自己の存在に関する物質的な制限を超越したい」とする衝動・欲求があるのかもしれません。
これには生物学的な個体差があるのかもしれませんが、「超越」の衝動には神経生理のメカニズムもあるのかもしれません。
これは進化生物的には、人間は社会的動物であるということだったり、共同体の利益や団結・秩序、長期的な種の存続、死の恐怖への抵抗、、、といったものに利する性質に関係するのかもしれません。
こういった生物学的な特徴があり、これが高度に情操を発揮するようになった人間では超越の欲求として、また、「霊性」などとして、精神性にあらわているのかもしれません。
生物としての進化を通して、人間は「自我・個我」といったものが高度に目覚め、かつ、それに応じた意志を行使するようになりました。
実に、そのことを可能にした脳・神経生理といった生物学的な基盤の中に、同時に、自我・個我からの「超越」という衝動もセッティングされているのかもしれません。
関連note:【大光明マンダラ】内なる意識・霊性(スピリチュアリティ)の探究の方向性
瞑想などによる意識の体験というのは、この「超越」に関係することかもしれないと、直感的に私は感じています。
そしてこの超越へと向かう実践においては、エゴへの執着を強めようとすることは成立しない仕組みになっているのかもしれません。
超越、もしくは霊性に向かう道筋においては、エゴの影響が大きければ大きいほど、何か問題が生じるリスクもそれだけ大きく、かつ、深刻なものになるのかもしれません。
また神秘体験が、エゴの増長や自己の過大評価につなかることもありえます。
「こんな神秘体験をした私は他の人よりも凄いんだ!選ばれた存在なんだ!偉大な聖者の生まれ変わりなんだ!」といったようなエゴのインフレーション、indulgence(耽溺)です。