神秘体験、サイケデリクスに対する懸念――オウム真理教と。【霊的な被曝】
何回かに分けて触れたくないテーマだったので、長文ですが、今回のnoteにまとめました。
「サイケデリクス」と「神秘体験」ついてのnoteです。さらに「オウム真理教」まで扱っています。
タイトルからして異様な「瘴気」を発してそうです。
全くもって気軽に扱えるようなものでもなく、深刻なものにも絡むため、これについて私が意見を述べても良いものかと悩んでいたら、鼻血が出そうになりました。
今現在、特に欧米先進諸国で精神医療などの分野で、サイケデリクス(幻覚剤)が(再?)評価され、注目を浴びつつあるようです。
中南米などの宗教的伝統における利用も、広く知られるようになっています。
日本においても、例えばスピリチュアル系(精神世界系、ヨガや瞑想、自然派なども含む)の一部の人達、領域においてサイケデリクスが注目され、受容しようという傾向が見られるように感じています。
もちろんこれは日本では「違法薬物」です。
先進諸国における真面目な学術的研究をともなったサイケデリクスの評価については、個人的には、これは一つの潮流であって、このトレンドがさらに顕在化することはあっても、止むことはないのでは、と考えています。
深刻な精神疾患、依存症など、これが医学的に適切に利用されることによって、長期間にわたる難治性の苦しみから救われる人もいるかもしれません。
これについては今回のnoteのテーマではありません。
今回のnoteはスピ系・精神世界系におけるサイケデリクスの民間利用や、それを望むような考えに対して、私の態度を記しておくものです。
関連note: 神秘体験の弊害 (瞑想する人note)
サイケデリクスには懸念を抱いている
スピリチュアルな目的での民間利用について、単刀直入に言うと私はサイケデリクスには懸念を抱いています。
これは頭ごなしの完全否定ではないです。懸念があるということをいっているだけです。(そうは言っても少しでも容認する余地があると、ここで主張したいわけでもないです)
たとえ(真面目な)スピリチュアル、精神的な探究を意図する人達による使用の場合であったとしても、深刻な事態につながるような問題があるのではないかと私は考えています。
一部の人達の中で、サイケデリクスに対する「期待」が先行するばかりであり、一方で問題やリスクに対しては、思索・議論がまだまだ十分に掘り下げられてはいないと感じています。
このnoteでは法的な問題については、いちいち取り上げません。
というのは、法的な問題は自明すぎることであって、字数が増えるだけだからです。
ちなみに大麻(THCに絡むもの)に関しては、医療目的での研究に関しては全く興味が無いわけではないのですが、嗜好目的であれ、スピ系目的であれ、私は完全に反対論者です。
参考↓↓
サイケデリクスにまつわる潮流 ―― 個人的な意見
サイケデリクスがスピ系(精神世界系)で注目されることがあるのは、それによって体験する「意識」が宗教的体験や深い瞑想などによって体験されるものと類似、もしくは同一のものであり、その体験がしばしば「癒やし」や「啓発」といったポジティブなものをもたらすことがあるという見解があるからです。
その意識体験は強烈なこともあり、特に臨死体験や、密教的な、例えば「クンダリニー(クンダリーニ)」などといった生命エネルギーが関わるような強めの意識体験と同類のものがあると言われることが多いです。
(禅での体験が持ち出されて、「インスタント禅」と呼ばれたのもあります)
特に米国で20世紀中頃からヒッピーが騒いでいた時期に、サイケデリクスが精神や意識の探究や新興心理学、オカルト、ニューエイジ、東洋の思想・宗教などへの指向と結び付いて流行したことがあります。
現在においては、違法な方法で無い場合には、しばしばアメリカ大陸のシャーマンや、それに連なる宗教的伝統・団体の儀式において体験されることがあります(アヤワスカ、DMTが有名)。
今日の、精神世界、スピ系でのサイケデリクスへの注目は、ある一つの潮流に沿ったものなのではないかと個人的には考えています。
人間自身の自らの内にある意識へと向かおうとする潮流です。
瞑想は主に東洋の宗教的伝統によって、欧米に紹介されて以降も偏見にさらされていた時期もありましたが、今日においては、社会的にも認知され市民権を得たように思えます。
特に米欧先進諸国を中心とする瞑想ブームの背景、真の背景は、私個人的には内なる意識へと向かおうとする衝動であると考えています。
つまり瞑想ブームもサイケデリクスへの注目も、根は同じものだと、私は考えています。
そして述べたように、サイケデリクスの体験は、深い瞑想体験と同類のものだとする見解があります。
いくつかの国々では精神医療目的での研究も認可され進んでいます。
これらのことから現代の先進諸国は、日本も含めて、特に精神文化や心理面、スピリチュアルの分野においては、顕在的にもしくは潜在的にも、サイケデリクスへの親和性が高まっているのではと私は考えています。
(有益であるとか、必要とされるとか、使用が認められるべきだとか主張しているわけではありません)
そしてこれは現代における一つのトレンドであって、今後もこの傾向は続くのではと私は考えています。
サイケデリクスへの態度として基本的なこと
再度述べますが、今回のnoteの目的は「スピ系・精神世界系におけるサイケデリクスの民間利用や、それを望むような考えに対して、私の態度を記しておく」ことです。(そして私の態度は懸念の表明です)
そのため幻覚剤の使用・乱用に絡む、個々人及び社会的な問題、その影響下、薬理作用、錯乱状態などでの事件・事故については、いちいち細かく触れません。
こういったことは幻覚剤の問題として明らかであると考えています。
実際にシャーマンの儀式によるものでも、こういった問題は生じています。
また述べたように、精神医療分野での研究についても、今回のテーマではありません。
述べたように、サイケデリクスがスピ系で注目されることがあるのは、それによって得られる特有の意識体験によるものです。
しばしばそれによって、「癒やし」「啓発」などが得られると主張されています。
さらにそのような体験が、個人のみならず社会の変革につながるとさえ主張する人もいます。
私は、サイケデリクスの体験に対して、過大評価や夢想を抱いている人が多いのではと考えています。
これについて簡単に済ますと 「過去のヒッピーや、現在でも幻覚剤の流通など違法行為に関わる人達のことを考えると、サイケデリクスの体験が機械的に、人に啓発を与えたり、人や社会の重要な変革につながるということはなさそうだ」ということです。
またシャーマンの儀式においても、「バッドトリップ」が生じることが知られています。
スピ系の中には、大衆的な好奇心を抱く人達よりも、もっと「意識の高い」人達がいます。
化学的・薬理的、心理学的な知識を持ち、もっと「スマートなやり方」で、「安全な方法」でスピリチュアルな探究のためにサイケデリクスを利用しようとする人達がいます。
事件・事故につながらない安全な方法で、サイケデリクスによって「素晴らしい」、スピリチュアルな意識体験ができれば、それは個人にも、場合によっては社会にも有益なのではないか、という主張もしばしば見られます。
では安全な方法による素晴らしい体験であれば良いのでしょうか?
素晴らしい意識体験であれば良いのか? ―― オウム真理教
「サイケデリクスの体験は、素晴らしい、スピリチュアルな体験だった」と評価する人達がいます。
臨死体験によって、深遠なスピリチュアルな体験をして、人生観や行動基準がポジティブな方向へ、善良な、向社会的な方向へと変化した人達のようにです。
こういったことがあり得るというのは、私は否定しないです。
私がこのnoteで述べておきたいのは、たとえ安全な方法で素晴らしい体験をしたとしても、なお深刻なリスクがあるのではということです。
むしろ、素晴らしい体験であるほどリスクがあると言いたいのです。
今日、サイケデリクスによって素晴らしい、スピリチュアルな意識体験、つまり神秘体験が可能であると宣伝され、魅了される人達がいます。
しかし「素晴らしい」神秘体験を実際に体験できるシステムをもち、多くの人々を惹きつけるという事態は、既にこの日本であったことです。
それはズバリ数々の凄惨な事件を引き起こしたオウム真理教です。
オウム真理教と神秘体験
この「瞑想する人」noteで述べたことがあるように、オウム真理教は経済的にも科学技術においても発展した現代の日本にあって、信じがたい程の規模の密教の実践団体であったのは間違いないと私は考えています。
教祖 麻原彰晃(松本智津夫 元死刑囚)はもちろんのこと、特に「幹部」や「実行犯」と呼ばれる人達は間違いなく、オウムの修行システムによって数々の神秘体験を経験したのは間違いないと考えています。
密教的な、「生命エネルギー」的な方法による神秘体験とサイケデリクスによる体験には、似たようなものがあると考えられます。
実際に、オウムの修行システムによる神秘体験と、教団の提供する ある強力な幻覚剤による体験の両方を経験したとする主張する人がいるようです。
「この2つによる体験は、ほとんど同じ。しかし修行によるものの方が “精妙” だ」といった内容のコメントを何かで読んだことがあります。
「まさか、あんな大事件を引き起こしたカルト宗教の修行による体験と、中南米の熟練したシャーマンや “知恵を授けてくれる善良な植物霊” が導く儀式での体験が同じわけないだろ?」
―― と思う人がいるかもしれません。
ネットなどで探すと、そういった伝統儀式に参加してサイケデリクスを摂取して「素晴らしい体験をした」などとする体験談はけっこう見つかります。
同じようにオウム真理教の修行システムによる体験談も探すといろいろと出てきます。
これはオウム事件関連情報でも、しばしば引用される有名な体験談で、教団幹部だった人によるものです。
(追記:↓この体験談には結構 編集による手が加えられているようです。)
凄まじい体験です。
「どーせオウムの宣伝本でしょ?嘘でしょ?」と思うかもしれませんが、こういったのはオウム以外の人達による体験談でもしばしば目にすることがあるものです。
これはある程度の段階の密教的な、生命エネルギー的な体験としては、「典型的」とも言えるようなものです。
ネットなどで目にするシャーマンの儀式の体験談と比べて、このオウムの体験はどうでしょうか?
「劣って」いるでしょうか?「毒ガスをばら撒かないと、地獄に落とすぞ!」といった脅迫めいたものでしょうか?
むしろ、シャーマンの儀式で、ひどく不味い液体を強引に喉に流し込み、ゲロはいて下痢しながら体験するような「素晴らしい体験」よりもさらに「素晴らしい」ものであると言えないでしょうか?
ではそのようなスピリチュアルな意識体験をした信者、教団はどうなったでしょうか?
何をしでかしたでしょうか?
関連note:オウム「タントラ ヴァジラヤーナの救済」
そもそものリスク ―― 神秘体験
「オウム真理教を持ち出すのは極端だ。私たちは、彼らほど酷くはない!」
、確かにこのように言いたくなるのも分かります。
しかし彼ら、オウム信者達は、皆が生まれ持っての悪性の、反社会的なサイコパス人格だったのでしょうか?
私たちや身近にいる人達、家族、友人知人、上司、取引先の人たちなどとは遺伝子の成り立ちからして隔たりがあるような、もとからして社会的規範から逸脱した、悪徳と狂気を備えた人達だったのでしょうか?
麻原やオウム信者達の人格については、私はよく分かりません。知人にも元信者はいません。
しかし私は、彼らが、あんなことになったの一つの要因として神秘体験の影響もあったと考えています。
麻原には教祖になる前からインチキ漢方薬を売って逮捕されるなど、数々の素行の悪さが伝わっていますが、どうしたわけだか、ある時期から宗教的な事柄に強い関心を持つようになり、仙道など、密教的な修行をするようになったようです。
そしてこれまたどうしたわけだか、素質才能があったようで、数々の神秘体験をしたのは間違いないようです。
私は、麻原・オウムから指導を受けた信者だけでなく、麻原自身も神秘体験の影響を受けた側であると考えています。
麻原の神秘体験が、あのようなカルト教団・教義の形成の根本的な起源だと考えています。
安全な方法であろうが、ヨーガによるものであろうが、伝統的なシャーマンの儀式でゲロ吐きながらのものであろうが、神秘体験自体に、それが素晴らしいものであるほど、深刻な事態につながるリスクがあると私は懸念しているのです。
神秘体験のリスク ―― いわば「霊的な被曝」
「たとえいくら素晴らしい神秘体験をしたとしても、私たちは彼らとは違う。正気でいられる」と思うのが普通だと思います。
たとえ神秘体験を繰り返したとしても、それはしょせんは「神秘」体験なのだから、現実ではない。、、、
「ポケモン」や「鬼滅の刃」を見ても、それが現実ではなくてアニメだと分かるだろ?、、、というわけです。
もしそのような、しょせん神秘体験に大きく影響されるのなら、その人が現実逃避などの偏った傾向や弱さを持っていたからだろう。、、、というわけです。
しかし、神秘体験の性質として、そうは言っていられないのです。そんなアミューズメントみたいなものでないのです。
というのは、そもそも神秘体験が、その人の人生観や価値観、人間性にまで影響することがあるのは、この体験に「真実性」があると、体験者自身に感じられるからです。そういった性質があるのです。
また神秘体験は、人間自身の内にある、まだよく分かってはいない意識領域に関係する体験なのではと私は考えています。
そしてこの意識領域に関する体験、神秘体験にはトランスパーソナルなものがあり、しばしば偉大な体験と感じられることもあります。
なおかつ、おそらく神秘体験に関する脳・神経生理が関わっていると思われるのですが「現実よりも現実感がある」と体験者によって述べられることもあります。
偉大な体験を通して「真実」「この世の実相」を悟ったみたいなやつです。
そうなると、望むと望むまいと、自覚しようと自覚しまいと、何が「現実」「真実」「正気」かに関する基準がシフトしてしまいがちなのです。
つまり頭のネジがおかしくなりがちなのです。
神秘体験にリスクがあるのは、神秘体験が「素晴らしい」ものだ(と体験者によって経験される)からなのです。
現時点では私個人としては、神秘体験を繰り返すことによって、頭のネジがおかしくなって緩んだり、外れそうになったり、何本か外れたりするのは、完全には避けることはできないのではないかと考えています。
こういったことは教団信者だけでなく、麻原自身が真っ先に体験したことであろうと考えられます。
それが根本的な起源となり、教団が成立し、教義や修行システムが整えられ、多くの人々を魅了し、拡大し、異様なものであるから当然に社会との軋轢が生じ、その軋轢自体が過激化を促し、、、そして凄惨な事件を引き起こすに至ったのだと考えられます。
見方によっては、教団自体が麻原を通して まるまる神秘体験の「狂気」に飲み込まれていったと言えるかもしれません。
一連のオウム事件においては、加害者・被害者といった観点で見ると麻原・オウムは間違いなく加害者です。残虐狂気の加害者です。弁解の余地など全くありません。
一方で、人間と人間自身の内にある意識領域といった観点で見ると、オウム真理教という酷いカルト教団の成立および教団の引き起こした一連の凄惨な事件による大惨劇は、これはいわば「霊的な被曝」であるという見方もできるのではないでしょうか。
(神秘体験に関係する内なる意識領域を霊性、霊的と表現するならば)
私は現代の日本でそのような事態が引き起こされたのは、驚くべきことだと感じています。
もちろんこのような見方によっても、麻原・オウムを弁護できる余地など全くありません。
未熟な状態であり、かつ困難
述べてきたようにサイケデリクスを、どんなに安全な方法で利用したとしても、それによって経験する意識体験(神秘体験)自体にリスクがあると考えられます。
そしてその体験の影響は、たとえ前もって意識していたとしても避けがたい性質があると考えられます。
臨死体験は誰もが頻繁に経験するものではありません。密教的な方法も、なかなか簡単にはいきません。
しかしサイケデリクスによるものは、それを摂取しさえすれば、ゲロ吐きながらでも体験できるものです。
しかしその割には、考えられ得る「霊的なリスク」に関しては、準備的な、周辺的なセッティング程度しか、考えられてはいないように見受けられます。
つまり私は、一部スピ系に見られるサイケデリクスの受容の態度は未熟であると考えています。
ただ、そもそも神秘体験への態度を成熟させることは、かなり困難な作業であると思われます。
神秘体験や神秘体験に関する人間の意識領域に関して、分からないことが多過ぎます。
また南米アマゾンなどでは、ファンタジーやメルヘンの夢想を語ることは許容できるのでしょうが、衰退期にあるとはいえ現代の先進文明に属する日本では、そうはいきません。
現代文明社会にあるという観点で、このような神秘体験、霊的な体験が考察されなければならないと私は考えています。
「現代文明の方が病んでいて間違っている。宗教を忘れた今の物質文明は否定されなければならない」という考えを抱く人もいるようですが、私はこれはまさにオウム的であり、間違っていると考えています。
もし現代の科学の発達した物質文明が崖っぷちなら、宗教は既にその一歩先を行ってしまっています。
現代の先進文明においては宗教は文化遺産や行事以外に占める場所などありません。
私としても、この後に及んで「聖書は真理」とか「記紀神話を信じろ」とか「印と真言と観想で大日如来と一体化」とか「念仏や唱題で救われる」とか、そんなもん もう冗談じゃないと思っています。
宗教がなくなった現代先進文明において神秘体験に取り組むのは、かなりの困難がともなうと考えています。
ひょっとすると、これは個人がどのように自身の内にある霊性(スピリチュアリティ)に向き合うのかというだけでなく、現代先進科学・物質文明がどのように霊性を迎え入れるのか?、ということにも関わるのかもしれません。
先進文明に属するだけではなくて、世界の中でも特に、社会的な均一性と安定性の高い ―― 同調圧力や閉塞感が強いとも言われてますが ―― 日本においてはデュオニソス的なものに向き合うような困難さというのが強く感じられるのかもしれません。
以上、長々となりました。スピ系におけるサイケデリクスと神秘体験の弊害、個人的な懸念の表明でした。