生命エネルギーと無意識
生命エネルギーは「実在」するのか?
この瞑想するnoteではしばしば「生命エネルギー」というものに触れています。
これは気功なら気、ヨガならプラーナ、クンダリニー(クンダリーニ)、チベット密教ならルン、ツンモ(チャンダーリーの火)に該当します。
この瞑想する人noteでは、生命エネルギーであれ、生命エネルギーと関連のあるチャクラであれ、こういったのが人体において「実在」しているとはしていないです。
(頭から否定しているわけではなくて、このnoteでは現在のところはそういう考え方は扱わないという方針です)
また物質的な人体と密接な関連を持った状態で存在する微細体やアストラル体なるものが実在し、生命エネルギーやチャクラはその体に実在している、ともしていないです。
(↑↑以上述べた方針は、今後もしかすると改めることになるかもしれませんが、、)
では生命エネルギーはどこに?無意識との関係
生命エネルギーやチャクラといったものは実在しているとはしていないけれども、そのような体験・感覚・印象はあるとしています。
ではそのようなものの起源は何なのでしょうか?どこからそのような体験はやってくるのでしょうか?
瞑想する人noteにおいては、生命エネルギー(の体験・活動・現象)というのは人間の意識-神経生理システムにおける創発現象であるとしています。
意識と神経生理システムにおいて特殊な条件が満たされた場合に創発され体験されるものだとしています。
人体の神経生理システムにおいて、重要なものの一つはおそらく性・生殖に関するシステムであろうと、しばしば述べてきました。
このシステムが、特に生命エネルギーの体験の初期段階で重要だと考えています。
では「意識」においては?
今回、強調しておきたいのは識閾下(潜在・無意識)領域です。
人間の意識において重要なものは識閾下領域であるだろうと考えています。
生命エネルギー(の体験・活動・現象)は、人体の神経生理を物理的な基盤として人間の意識の識閾下領域からやってくるもの、と考えています。
つまり「意識」に注目した場合には、この生命エネルギーの起源は無意識であり、生命エネルギーは無意識領域に存在すると表現できるでしょう。
宇宙に遍在する「気」「プラーナ」といったものを、呼吸法などによって外から体内に取り込んだ結果として生命エネルギーの体験が生じるとはしていません。
無意識の特殊な活動が人体の脳・神経生理システムにおいて顕現したものが、生命エネルギーであるとしています。
日常生活を送る上で「意識ー神経生理」の恒常性が保たれているのが人間、人体の機能なわけです。
その恒常性を揺さぶり、そして破りさえする力は、無意識の中にあり、それが生命エネルギーと言えるのかもしれません。
また臨死体験者の中にはクンダリニーなど生命エネルギーの体験をするようになる人がいるという報告がありますが、このことにも関係するのかもしれません。
関連note:無意識や神秘体験、体外離脱にも関わる?ヴィム・ホフ・メソッドの呼吸法 ↓ ↓
内丹(仙道)の陽気や小周天といった初歩的なものも例外ではないです。
つまりは、このような生命エネルギーの体験というのは、大なり小なり、その性質上は必然的に無意識からの影響力を帯びざるを得ないと考えられます。
神秘体験や宗教的体験、幻覚体験がともなうのは、そのためなのでしょう。
このことは生命エネルギーに関するリスクの起源をも示すと考えられます。
諸刃の剣 ―― 識閾下領域からのリスク
生命エネルギーは無意識からやってくるものであり、かつその性質を帯びるのなら、ある場合にはその影響を享受することによって大きな恩恵があるかもしれません。
しかし一方でリスクもあると考えられます。
というのは、無意識というのは制御するのが難しいからです。
人間が自らの無意識の制御下におかれるようなことはあっても、無意識を制御下におくのは難しいからです。
さらに無意識はどうなっていて、その内にいったい何があるのかもよく分かりません。
ヨーガでは目覚めた生命エネルギー、シャクティをドゥルガーやカーリーという戦いの女神、凶暴な女神に例えることがあるようです。
実際にヨーガであれ、チベット密教、内丹(仙道)であれ、このような実践にともなう発狂などの心身のリスクが指摘されています。
関連note↓↓
生命エネルギーの実践という特殊な方法で、人間の識閾下領域と通じる穴が開かれた時に、いったいそこから何が出てくるのか、その影響力にさらされた時に、いったいどういうことになるのか、こういったことは深刻な懸念が絡むことなのかもしれません。
このことは思索を深める必要があると感じています。
ふと思うのですが、 *「命と幸い」と「死と災い」 とを分けるのは、ひょっとすると生命エネルギーに触れ、自らの内に向かう人の人間性なのかもしれません。
ここにおいて霊性というものが重要なのかもしれません。
● ユダヤ・キリスト教圏ではとても有名な言葉なので、あくまで教養として一応、、、。↓↓