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「ファンタジー」(『このあいだ』第2号 2020/11)
このあいだ、 ぼくの帰宅前に妻が撮影した、 食事中の娘(4歳)の動画を見せてもらった。
髪を大雑把に結わえられて、 (今もランニングシャツと言うのかどうか)ピンク色の小さな綿の (肌着と言うと年寄り臭いのか)、 袖の少しだけある、 結局よくわからないけれどとにかくこの今しか着られない小さな身を包むものを着て、身振り手振りを交えながらなにごとかを物語っている動画。
妻とぼくの細めた目の中に、 娘の発する 「じつはね、」 だとか、 「と、いうことやねん」 といったことばがするする入り込んでくる。 目に入れても痛くないというのは本当だ。子どもはやがて自立していくものだが、 できるならいつまでも目に入れたままに、 自分の瞳のようにして守ってやりたいと思う。
「じつはね、 トマトはたいようのなみだやねん。 (むしゃむしゃ) たいようはね、 まぶしくって、 だれもちかくにきてくれないねん。 それで、 たいようがないて、 なみだがトマトになってん」
かわいそうな太陽。
「ピーマンはほしやってん。 うちゅうの。 それで、おおきくなって、 おちてきてん。(むしゃむしゃ) と、いうことやねん」
どういうことなのか常人の私には理解しかねたが、 野菜は畑ではなく宇宙由来らしい。
おそらく娘が語ったこの話は、 保育園で読んでもらった絵本か、 YouTube の子供向け動画から仕入れたものと思う。嫌いな野菜を好きになってもらうように大人が考え出した話なのだろう。 もっともそれで苦手な野菜を食べてみたくなるかといえば、 宇宙から落下したピーマンなど気味が悪くて食べられそうにもないと思うから、教訓的な意味付けのない一個の童話なのかもしれない。
ともかく、 再話することで娘はトマトの涙や星だったピーマンというファンタジーを咀嚼したのだろう。 何がそんなに気に入ったのかはわからないが、 娘がそんな風に自分から語ってくれたことがうれしい。保育園できょうなにがあったとか、友達の話とか、そういう話はほとんどせず、あまり自分を語らない子だから。
そんな娘は車窓から風景を眺めることが好きだと言う。
たしかに、 車で通ったことのある道はよく覚えている。地下鉄の窓からすらも、 外を見たがる。
血のつながった者としての直感、あるいは自分に似るはずという鋳型から作り出した臆見かもしれないが、娘のふだん語らないファンタジーはその窓の外にあるのではないかと思う。
自分もよく車の窓から外を見ていた。 ついてくる月を眼で追ったり、いつも同じ場所に現れる看板がまた現れるのを確認したり、曲がったことのない曲がり角の先や、 入ったことのないおもちゃ屋さんの中を想った。 しかしそうやって観察しつつ、同時にいつも明日の自分や、ここではないどこかへ行く自分、 起こるかもしれないわくわくするような出来事のことを考えていた。
乗り物にのっている間は寡黙だった。 他に乗っているのは妹を除けば大人ばかりで、大人は大人の話をしていたから、 自分は自分だけのファンタジーにふけることができた。窓に顔を向けさえしていれば、景色を見ているんだろうと、そっとしておいてもらえるから。
妖怪やドラゴンやピラミッドや心霊、 黄金の頭蓋骨とか魂の重さを測る装置とか、そういった怪しげなものは一切出てこない、 ほとんど普段通りの生活にあるものから素材を得たファンタジーだった。 奇想天外なものはみんな本の中にあったから、それらは本の中で楽しめばよかった。 しかし車窓から見るファンタジーの中にいる自分は総じて自由で、自分に自信をもっていて、 コンプレックスを気にかけることなく、気兼ねなく発言し、行動していた。 今思い返すと、 そうだった。 強くて愛される自分だった。
子どもだったから、 そのファンタジーの中の自分を実現する手立てをぼくは持っていなかった。 その後もずっと子どもだったから、ぼくは自分の本当に叶えたいファンタジーではなく、ある種の出来合いの幻想にすがって生きてきたところがある。神とか、イエス様とか、信仰とか。
しかしぼくは親になって少しづつその幻想を埋めることをはじめた。 谷間を埋めれば地に足がついた。 地に足をつけて空を見上げれば、そこに想像力が広がっていた。 自分は無事に育っていて、 いい大人になっていた。「信仰者のための霊的な世界」(*1)などいらない。 やっと自分自身のファンタジーをものすることのできる齢に達したかもしれない。
目に入れたいほどの娘や息子の成長を、ふさわしく距離をとって見守る。 車の窓から走る風景を眺めていたかつての自分は、今は地図に自分を書き記したいほど 「ここにいる」 。
娘のファンタジーがどのようなものなのか、 買ってほしいおもちゃなのか、保育園での人間関係なのか、満たされない欲求の実現なのか。 娘のプライバシーにみだりに踏み込むことは差し控えたいが、 彼女が困ったときにそこにいる実在であり現象でありたい。 彼女が何らかの幻想に頼らなくてもいいように。 想像力をもって彼女の立場を理解してやれるように。 そのためにまず私たちが必要としているのは、子どもたちの無尽蔵のかわいさやエピソード、 いたすらやわがままを限りなく仕舞っておける衣装だんす(*2)だろう。
いつかその扉の向こう側で、じゅうぶんに愛情を受けた経験とともに、娘自身のファンタジーの世界を現実のものにしていってくれたら、と思う。