「意図」(『このあいだ』第3号 2020/12)
妻の言い間違いに慣れてもう長い。
彼女が言い間違えたことは、これまでに私が蚊に咬まれた回数ほどあれど、 そのしばらくの痒みのあとはほどなくひいていくので、ひとつひとつの言い間違いは面白いのに、残念ながら記憶に残っているものはわずかしかない。
一戸建てを借りて住んでいたとき、2階から 「階段をひろってきて」と言われた。 洗濯物の山から落ちた靴下かハンカチーフを拾って、「はーい」 と上にあがった。
あるときはドナルドダックをダックスフントと呼んだ。いわゆる「ど忘れ」 というもので、咄嗟に名前が出なかったのだろう。 近いところにミッキーの仲間のグーフィーがいた、でも彼じゃない。 その傍に犬のプルートーがいた、でも違う。 その近くに足の短い犬が佇んでいた。 この犬の名は何だっけ、そうだ、 ダックスフントだ!
晩御飯のあと、寒い台所で皿洗いをしていると、「終末(*1)までお願いね」とのお達し。洗い物を 途中でやめてしまうこともあるぼくにだから言ったことなのだが、 もし妻の言い間違いの癖を知らなかったら、 ハルマゲドンの進行中も尽きることのない皿を洗い続けていただろう。 いったい何の刑罰か。妻は「しまいまで」と言いたかっただけらしかったがー。それにしてもぼくと同年代の人間が「しまいまで」と言うのはあまり聞いたことがない。 そんな言葉遣いをするのはぼくらの親以上の世代だ。
そう言えば妻の母も言い間違う。 いや、言い間違いというより記憶違いだ。
結婚して最初に住んだ家で、義母も滞在していたある夜のこと。 居間にしていた畳の部屋で、 ぼくはモーツァルトの「アヴェ・ヴェルム・コルプス」 を聴いていた。 モーツァルト晩年の美しい宗教曲の小品で、この世にこれ以上の音楽はないといってしまいたくなるほどのものだ。
ぼくはホームセンターで買った籐椅子に腰掛け、瞑目して聴き入っていた。そのとき隣に何者かの気配が動いた。 そして溜息まじりに母が言った。
「この曲、いいよねえ・・・。 プルコギ・・・」
「え」
とぼくは言った。
「お母さん、それは韓国の焼肉ではないですか?」
3人で大笑いしたのが懐かしい。
先日は妻に、
「次マモリーノいつやっけ」
と尋ねられた。
さすがに何のことかわからなかったので、妻に訊くと、彼女は笑いながら、
「まちがえた、あれ、リモー、 そう、リモート!」
リモートワーク (在宅勤務)の予定を尋ねられていたのだ。「マモリーノ」 と言われるとなんとなく留守番のイメージが浮かんで、 仕事をしているはずなのに、いつも家にいる飼い猫と肩を並べるような感じがする。
言い間違いの奥に、 何らかの意図があることが面白い。
学生のときの友人に、「女は何を言っているのかわからん。 論理的に話せ云々・・・」とそんなことを言ってはぷんぷんしている小太りの男がいた。 彼は自分のスマートさを意識していたに違いないが、 私の方は機会あらば自分のほうがよりスマートであることを示そうと思って、内心で次のようなことを思っていた。
どんな言葉の奥にも意図がある。 表面的にそれがどんなに錯綜していようと、 それを解きほぐして、 言い表された言葉から真意を汲み取ろうとすることが男の役割なのではないか。
ふん、と鼻で笑ってしまいそうになる。 どちらにせよ、男の役割だとか、女・男問題で話をしているところが前時代的だ。 今思えば、彼は忙しくてイライラしていたのかもしれない。そして現在の私はAmazon のスマートスピーカーがこちらの言うことを正しく理解しないからといって腹を立てている。 もし人工知能のアレクサが 「論理的に話してください」 などと言い返してきたらなんと言うだろう。
地震などの天災を間違いとは言わないが、 「リモートワーク」を「マモリーノ」 と言えば間違いになる。 プレートの動きも、発話のプロセスも、前の状態と後ろの状態の間にある物理的な状態である点は同じである。本来言いたいことから外れるので 「マモリーノ」 は言い間違いになるわけだが、 天災は神や地球が何か別のことをしようとしてうっかり起こすようなものではない。ではぼくらの持っている「意図」 というものはいつ発生するのか。
生命の歴史をひもといていけば、たとえば原生生物が暗所より明所を好んで選択するとか、 その逆とか、 ただの石ころにはあり得ない行動が見出されて、 そこに意図の誕生を見ることができるのだろうか。 それとも生物自身が、 なぜそれを選んだかを反省しはじめたときだろうか。 あるいは他の生き物が近づいて、 自分の縄張りに入ったときに、その他者の意図というものに気づくのだろうか。
そこでぼくは改めて、 自分の縄張りに近づいてきた妻の言葉の足跡をたどってみる。 「マモリーノ」 というはずではなかった、 最初に思い浮かんだそれを否定して 「なんとかワーク」と言うほうのことを試みはしたのだ。 でも「何ワーク」だっけと思ううちに、 「マモリ・・・」 がもう口の端にのぼってしまっていた。
あらためて 「マモリ」 という言葉の手触りを確かめてみると、 猫にもぼくにも家で安全に落ち着いて過ごしてほしい、というやさしさを感じられるような気がした。 ほっこりする。「マモリ」ということ。この家にいる者が守られることも、守ることも、妻はいつも大切にしているのだ。
妻のように、自分の言い間違いの中にすら愛情を潜めることができるようになったら、ぼくも今よりましな人間、 少しはよい夫になれるだろうか。