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「エパタ」(『このあいだ』第6号 2021/3)

 目の底に堆積するような疲れに、椅子に座り込んで市販の目薬をさす。そんなとき、ああ、このまま電気のひもを引っ張るみたいにして、それっきり目が見えなくなったらどうしよう、と思う。

 子どもの頃から、「盲人の目が開いた」とか「唾を吐いて作った泥を目に塗ったら見えるようになった」とか、その手の話ばかり読んできたので、逆に視力を失うという事態への対策が私にはまるでできていない。何度めかの「どうしよう」で、はた、とそのことに気がついた。

 ただしこの「どうしよう」は、心配、というのとは違う。もっとのんきな「どうしよう」なのだ。視力は許されるなら死ぬまで、いや可能なら死んでも手放したくないもののひとつではあるものの、失うことを思うと憂いで何も手につかなくなる、というのではない。なんというか、起こり得る事態に備える、防災とか減災ということばに近い思い巡らしなのだ。

 のんきの証拠に、まず思いついたのが本を今のように読めなくなるということだった。それと同時に書くことも様変わりするはずだと思った。漢字にするかひらがなのままおくか、やはりそれはいまは視覚に頼って決めているような気がして、自分がこれまでひとりでしていたのを、たとえば妻の視覚に頼り、「矢張此処やはりここは漢字が多くて五月蝿うるさいのでは無いか」などと話すようになるかもしれないし、もうハナから点字だけで書くようになり、そうなると自分の指の感覚に美しいと思われるまま、触覚のみを頼りとする文章を書くとか、見えないならば見えない世界にどんどん沈潜していくのかもしれない、等。
 こんなふうにまず思いついたのが趣味のこと。いまの会社での仕事はもう続けられなくなるだろうということは、生活に深刻な影響を及ぼすに違いないのに、そこに思いが到ったのは順番として最後だった。

 子どもたちが成長するとか、それに比べれば猫がそんなに変わらないとか、床に傷が増えたとか、妻が美しく老いるとか、そういう日々一度きりの変化を見られなくなるのもひどく残念だと思った。それは半身で死後の世界に行くことのような気がした。半分はそこにいるのに、半分は自分だけそこで目撃していない。「このうどん、短いそばが混じってるよ」と娘が声を挙げるのは聞こえるのに、自分にはその白と黒のコントラストは頭に思い浮かべるものでしかない。そうして二度とこの世に戻らないということがどういうことかを、半分だけ想像するのだ。

 いやいや、死ねば無になると思うからそんなことを考えるのであって、逆に見えなくなることによって、「死後にはどんなことができるようになるのか」を追究できるかもしれないではないか。見えないことで、かえって「見えて」くるものがあるだろう。人それぞれの足音のすがたや、くしゃみの音色の違い。存在しなくなることによって、かえって「存在する」ようになるものはないだろうか? そう思い直してみる。それは見えなくなることによって開かれる可能性への飛躍である。

 仮に死というものがごく短時間で集中的にたくさんのスイッチをオフにすることだとして、ひとつのスイッチを切り、次のスイッチを切るまでにそれを補完する機能を十分に育てる、それも複数の場所に、等比級数的に、もしそんなことができたら、つまりもし十分ゆっくり死ぬ時間さえもらえれば、生命の活動というのは、ついに死んだように見えて、実はまだまだ続くのかもしれないと妄想する。もちろん、そのためには個の身体の限界を超えなければいけない。いわゆる「第六感」のようなものを「体外」に持つ必要があるわけだ。

 しかし、何もスイッチがひとつ切られるのを(具体的には視力を失うことを)を待たずとも、普段からそれを補う感覚を研ぎ澄ますお勤めに励んでいればいいのである。視覚だけでなく聴覚を。それから嗅覚、触覚を。自分の心だけでなく他者のこころの動きを。それこそ「よく生きる」ということではないかと思う。一つの私の身体があり、それがやがて老い、機能を失い、そして死んであの世に行くという考えに縛られるから、「私」は死ねば何もできなくなってしまうのではないか。

 他者の心で感じることができるようになればどうか。虫の眼で見られるようになるとどうか。自己にとらわれず、むしろそれを頒布することはできないか。利害を離れることが難しければ、例えば(けして乗っ取りではなく)子の心になることを、子の喜びを喜びとすることができるようになれば、どうか。

 かねてより友人から文学作品の朗読を聴いてみることを勧められていた。日本文学の古典の多くはパブリックドメインだからYouTubeで探すと、作品数は多いし読むのが上手な人もたくさんいる。まずは寝る前に10分くらいのものをと、たまたま徳田秋声の作品がいくつか上がっているのを見つけて、「放火」という作品を聴いてみた。「ほうか」ではない、「つけび」と読む。

 人の声で読むのはまったく新しい経験だった。主人公が身寄りなく、「捨て石に躓く」という音声と映像の新鮮なこと。中学生になって、文庫本の『杜子春・蜘蛛の糸』ではじめて文学の味を知ったときの感覚がよみがえったようだった。神の子イエスが、耳が聞こえず、口のきけない人の両耳に指をいれ、舌に触れる。そして深く息をついて「エパタ」、すなわち「開け」と言う。するとその人の耳が聞こえ、舌のもつれがほどける。朗読を聴き終えた私は、あたかも多感だった頃の自分にもう一度触れられたような気がした。目を閉じて眠るとき、ぼくはあしたもまた目覚めて生きるのだと思った。18年前に亡くなった父、ぼくに文学や音楽に触れる機会を与え、何より素直にありのままに生きることを示した父が、今も隣にいることを改めて知った。

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