「シン・エヴァンゲリオン劇場版:||』の主要キャラクターについての感想とちょっとした考察
はじめに
本記事は元々Twitterのフォロワーさん向けに書いたものでしたが、作品がAmazon Prime Videoにて配信開始されたことをきっかけに公開することにしました。
基本的には主要キャラクターについてしか書いていないのですが、書いていたらそれなりの分量になってしまいました。
(これでも書きたいことの3分の1くらいしか書けていないのですが、時間がかかり過ぎてアレなので切りの良いところで締めました……)
お時間がある時にでも読んでいただけると嬉しいです。
キャラクターについて
■綾波レイ
これまでも感情や感覚を少しずつ自覚していくシーンはあったけど、今作では第3村という共同体の中で、エヴァに関係のない自分として、いろいろな世代の人々と繋がりを築いていたところがとても印象的だった。
1時間近くに及ぶ第3村のシーンはゆったりとしているシーンが多く、飽きるまでいかなくともやや冗長に感じる人もいるだろうけど、それはリリスの魂と碇ユイの肉体を持つ"綾波レイ"が、彼女自身の"心"を加えた三者として救われるために必要な長さだったのだと思っている。
そもそもリリスの目的は、人類と契約して他の使徒を根絶やしにし、自らが生き延びることで、ユイの目的は(おそらく)人類にとってより良い未来をシンジに創造させることだった。
元々はそんなリリスとユイの目的を実現するための道具に過ぎなかったレイだが、TV版や『:破』までで見て来たように、シンジと触れ合うことで徐々に自らの願いを持つようになる。
その願いの一つが「碇くんがもうエヴァに乗らなくていいように」だった。
シンジを初号機に乗せまいとレイが初号機のコックピットに留まる行動は、先のリリスの目的にもユイの目的にも反している。だからこそそれは、シンジが新劇『:序』から関係を築き育んできた綾波レイ自身の願いに他ならない。
そして今回、レイは第3村の人々や自然と触れ合ったことで、誰かのクローンとしてではない、"綾波レイ"自身の新たな願いが芽生えた。
象徴的な場面は、アスカと黒レイのやり取りだ。シンジに好意を持つのはそう作られているから……それをアスカから聞いた黒レイは「それでもいい」と言った。
これは一見、主体性の無さや子供的な内省性の低さを感じさせる言葉だろう。
だが、思えば僕たちもレイと同じなのだ。
何かを好きになる時、理由はいつも後からやってくる。
そして理由がわかったところで、その"理由自体"を心地良いと感じる理由までは突き詰めない。"優しいから好き"だとして、その"優しい"をなぜ好むのかの理由はどうでもよくて、ただ感情に従うだけだ。
黒レイはあまりにもシンプルにそれを肯定した。
そしてそれは、彼女に根ざしている存在であるリリスとユイをも受け入れる言葉に思えた。
スタジオ(という言い方でいいのかな?終盤でシンジがみんなを見送っていた場所)でレイは、"ツバメ"と書かれた人形を大切に抱くほど、ツバメに愛情を感じていた。
その愛情はもしかするとレイ自身が起源ではなく、レイの中に存在するリリスとユイの母性的な性質に影響されたものなのかもしれない。
でも先の言葉は、"それも含めて自分という存在だ"と言っているように僕には聞こえた。リリスとユイからどうやっても離れられない自分自身を肯定し、引き受けると決めたのだ、と。
"誰かによって決められたものかもしれない、だとしても自分はそれを選びたい"という意志こそが、人間としての"綾波レイ"の幸福を形作るはずだ。
来たる新世紀にはエヴァもない、シンジもいないかもしれない……でも、第3村で人間らしさを育んだことこそが、レイにその後の人生を生きる希望を与えたのだと思う。
■渚カヲル
『エヴァ』という作品の中であまりにも重要なキャラクターだが、彼の登場シーンは意外に少ない。
TV版ではたった1話、新劇場版でもおそらく合計1時間程度だろう。
それでもあれだけ強い印象を残したのは、彼の理知的であたたかなキャラと、作中で常にシンジの味方をしてくれる稀有な存在だったからだと思う。
彼のシンジへの優しさが、シンジだけではなくシンジに自分を重ねていた視聴者の心をどれだけ軽くしてくれたかは言うまでもない。
「カヲルくんは父さんに似てるんだ」とシンジが言っていた通り、
精神世界でシンジを待っていたゲンドウの13号機の座り方は、カヲルのTV版初登場シーンでの座り方とよく似ていた。
TV版では、セカンド・インパクト後にアダムの魂をサルベージするためにダイブした人間の遺伝子が元となってカヲルの肉体が造られたのことだが、その遺伝子がもしかするとゲンドウのものだったのかもしれないと妄想してみるのも面白い。
シンジに対してゲンドウが持ち得たであろう"良き親"としての側面が、カヲルには反映されていたのかもしれない。
新約聖書におけるアダム(=カヲル)の子孫がイエス・キリスト(=シンジ)ということも関係しているのだろう。
(そういう意味では、孫を可愛がる祖父のような存在なのかもしれない)
ちなみに、加持から「渚司令」と呼ばれていたのは、ニア・サード時にゼーレの刺客として送り込まれたカヲルが空白の14年間で(ゼーレから逃げたゲンドウの代わりに)司令の座へ着いたためだろう。
サード・インパクトで魂を補完するというゼーレの目的が成されてゲンドウと冬月がネルフに戻って来た頃、カヲルと加持たちが密かに発足した組織がヴィレだったのだと思う。
DSSチョーカーも、その際に人類側の保身として作られたものなのだろう。
カヲルは裏切るつもりなどなかったはずだが、結果的にそのDSSチョーカーに命を奪われることがなければ、今作でのシンジの成長も、あの結末もなかった。
加持はカヲルに対して「シンジ君を救うことであなた自身が救われたかった」と言っていたが、彼自身では終わらせることの出来ない無限の繰り返しの中、成功するかわからないどころか何度も失敗してきたはずで、それでも希望を失わず、可能性を信じ続けることがどれだけ難しいか、僕には想像すらつかない。
シンジのことが好きで、心から救いたいと願っていなければ出来ないことだ。
だからきっと、加持の指摘は半分当たりで半分外れだ。
最後に加持と共にシャッターの向こうへと消えていくカヲルの声には、シンジへの強い愛情と思いやりが確かに含まれていた。
きっとミサトがシンジに言った「父親に息子が出来ることは、肩を叩くか殺してあげることだけよ」はカヲルにも当てはまるのだろう。
シンジはS-DATをゲンドウに渡すことで彼の肩を叩き、自らがその責を引き継いだ。
そんなゲンドウと同じように、カヲルもまた、"無限に生き続けなければならない世界の破壊"と"シンジの救済"という肩の荷をシンジに下ろされたことで、ようやくスタジオの外へと向かって行けたのだと思う。
それはカヲルにとって、子の独り立ちを寂しくも祝福する"子離れ"だったのかもしれない。
あの向こうは一体どんな世界なのだろう?
加持は既に亡くなっているのだから、もしかするとあれは"あの世"なのかもしれない。
「時間も世界も戻さない」というシンジの言葉から察するに、死者はきっと生き返らないのだろう。
だとすると、あの宇部新川駅にカヲルがいた理由が僕にはわからない。
前田監督が言っていた"13号機のプラグ内に残っている複製カヲル"に魂が入って生き返ったのかもしれない……と考えることは出来るが、どうだろう?
なんにせよ、シンジに依存しない未来を歩み出した彼を祝福したい。
■式波・アスカ・ラングレー
シンジへの説教、13号機との戦闘、幼少アスカの回想……印象的なシーンがとても多かった。
後半はゲンドウの手のひらの上で転がされた挙げ句、攫われてシンジに救われるという文字通り"姫"の立場にはなったが、「ここは私がいる所じゃない、守るところよ」という言葉を始め、命すら捨ててゲンドウのインパクトを止めようとする彼女の姿には、旧劇の時にあった感情任せの特攻ではなく、人類を守るという揺るがない決意が見えた。
特に13号機を破壊しようとするシーンは今作で一番カッコ良かったと思う。
アスカがクローンとわかった時、それなら『:Q』で言ってたエヴァの呪縛(=身体的成長の阻害)とは何だったのか?と思ったが、そういえばTV版で赤城ナオコに殺された最初の綾波レイも14歳ではなかったし、本来はクローンも成長するということなのだろう。
シンジには「私が先に大人になっちゃった」と言っていたが、身体年齢だけではなく、精神年齢的にも『:破』の頃とあまり変わっていないように僕には見えた。
ケンスケ宅でシンジの口にレーションを突っ込むシーンや、黒レイに対する返答を見ていると、トウジやケンスケと比べて精神的に未熟で、作中の28歳のキャラクターたちよりも幼く感じられた。
おそらく他の"式波"から記憶の引き継ぎもあったのだろうが、記憶の蓄積量と精神年齢は必ずしも比例するわけではないし、新しいクローン体に移り変わる度に精神は14歳からやり直していたのかもしれない。
(綾波タイプがシンジに好意を持つのはクローンとして仕組まれているからだと言ってたが、それは式波タイプも同じなんだろうか?だとしてもシンジへの態度はオリジナルの式波と変わらない気がする)
アスカの幼少期の話は新劇で今回初めて出てきたが、そこで語られたのは母への依存的な承認欲求ではなく、家族の不在から生じる寂しさだった。
「誰も頼らなくていいように強い体と心を持つ」と自分に言い聞かせながら、「誰か私を認めて!」と他者を求め続ける矛盾を抱えていた幼少期のアスカは、いつも一緒だった人形と同じようにケンスケが傍にいてくれたことに気づき、救われた。
『:破』から『:Q』に至るまでの14年間は詳しく語られなかったが、決して少なくはない時間、ケンスケはアスカを見守っていたのだろう。
旧劇までであれだけ描かれていた"大人への承認欲求"が(今作の終盤になるまで)ほぼ描かれなかったのは意外だったが、もしかすると庵野監督は、アスカにおける母娘の関係は旧劇25話で既に補完済みとみなし、それまで描き切れなかった一人の少女としての面を新劇で主軸にしたかったのかもしれない。
それは『:破』を見てもわかるが、あの海辺でのシンジとの邂逅にも表れている。
「シンジのこと好きだったけど、私が先に大人になっちゃった」という言葉には、"好きな人と一緒に歳を取りたかったが出来なかった"という寂しさと、"子供と大人とでは恋は出来ない"という恋愛観が見える。
(が、捉え方を変えれば、まだ完全に消えていないシンジへの恋を諦める口実にも聞こえる。仮にそれならそれで、アスカが14年も想い続けるほどシンジのことを好きだったことがわかって面白い)
ケンスケ宅で裸を見られても堂々としていた一方で、赤い海辺のシーンでは裂けたプラグスーツから覗く肉体を隠すかのようにシンジに背を向け顔を赤らめていた。
この対照的な反応はクローンと人間との人格的な差によるものなのか、もしくは好きだったシンジと両想いだったことがわかって照れただけなのかは定かではないが、アスカはようやく人間らしい感情を、エヴァの呪縛から解かれた自分を取り戻したのだろう。
あの大人アスカが着ていたプラグスーツは、首の部分が旧劇までと同じ"惣流"のものだった。
だからあのアスカは惣流……のように思えるが、そもそも式波を救わずに惣流を救う意図もわからないし、あれは全ての世界のアスカが混ざった存在と考えた方がいいのかもしれない。
(ループの起点が旧劇という示唆もありそう。新劇ではアスカの両親について一切触れられていないため、『:破』の頃の"式波"自体が"惣流"のクローンという可能性もある?それならそれでどうやって"惣流"の遺伝子を手に入れたのだろう?)
"アスカとケンスケは肉体関係があった"という説については、仮にもしそういった関係であったなら、もっとお互いを思いやるような行動や距離感の近さを感じさせる描写があっていい気がした。
アスカの裸を見たケンスケが慌てる様子もなくタオルを掛けたのは、ケンスケが(かつての加持のように)子供のアスカを恋愛対象として見ていないためで、ケンスケにとってのアスカは女性というより妹に近い存在だったのだと個人的には思う。
とは言え、これからのことはわからない。
シンジとの恋も終わり、アスカはこれからケンスケとどういう関係を望むのだろう?
そして、ケンスケもアスカとどういう関係になりたいのだろう?
たとえどのような未来になるとしても、TV版からずっと不遇で、敵と闘ってはボロボロになり、いつだって救われることのなかったアスカが、これから普通の日常を過ごしていけることは間違いない。
それが何より嬉しい。
■真希波・マリ・イラストリアス
戦闘要因の印象が強かったが、結局『エヴァンゲリオン』に関わった全ての者が救済されるために最も重要な存在だった。
今作を一度観終えた後は、冒頭の「どこにいても必ず迎えに行くから、待ってなよ、ワンコ君」がとても印象的に残る。
綾波や式波と同じく"波"が付く真希波であることからクローンという可能性が高いが、作品は完結しても彼女の謎の多くは明かされないままになっている。
もし冬月が持っていた写真の右手前の女性がマリなのだとしたら(というかそうでないとあの写真を見せた意図がわからない)エヴァに乗っているマリより年齢が上だし、ユイのことを直接知っている年齢なのだから間違いなく14歳ではない。
漫画版ではユイとゲンドウと共に冬月の元で形而上生物学を研究していたことが描かれているし、今作のゲンドウの回想シーンでもマリらしき女の子がゲンドウに絡んでいる描写があった。
もしかするとオリジナルのマリが14歳前後のクローンとして彼女を作ったのだろうか?
クローン技術がある世界なのだから、あるいは本人が若返るような技術も存在していてもおかしくはなさそうだ。
冬月が言った「イスカリオテのマリア」は、"裏切り者"の代名詞である"イスカリオテのユダ"と、彼女の名前の"マリ(ア)"を掛けた単語なのだろうが、前者については終盤での彼女の「知恵と意志を持つ人類は、神の手助けなしにここまで来てるよ、ユイさん」というセリフからもわかるように、元々はゲンドウたちとエヴァの研究を進めていたが、冬月同様にユイからエヴァと人類の未来について聞かされ、その意志をマリなりに継ごうとして離反したという経緯が思い浮かぶ。
一方で"マリア"は"マグダラのマリア"なのだろうけど、マリアにはイエス・キリストの単なる従者説と妻説の両方の説があって、今作のラストシーンではその両方の可能性を残すような上手い表現がされていたように思う。
新劇からのキャラクターではあるがシンジと絡むシーンはほぼなかったし、強い好意があるようにも描かれていない。
シンジに対しては"ユイとゲンドウの息子だから気にかける"くらいの温度感に見えたから、正直こんなに重要なキャラクターだとは思わなかった。
シンジがアスカを見送る海辺で何の脈絡もなくマリが現れたのは、
マリ(=安野モヨコ)が現れたおかげでシンジ(=庵野秀明)はアスカ(=宮村優子)への心残りを断ち切ることが出来たという示唆なんだろう。
不信と罰の象徴であるDSSチョーカーをシンジが自らつけたのは彼なりの責任の引き受け方なのだが、それをラストシーンでマリが外すのは、『エヴァンゲリオン』に囚われていた庵野さんをモヨコさんが解放してくれたという証であり、"罪を贖った"(「贖えない罪はない」という『:Q』でのカヲルのセリフにも掛かっている)ということでもあるのだと思う。
色々考えてみてもマリという存在はわからないところがまだまだ多いのだけど、シンジにとっても庵野監督にとっても、もっと言えば新劇の作品創りにおいても"外部からやって来た者"(=他者)の象徴なのだろうし、きっとあえて不明な部分を残しているのだろう。むしろそれで良いとも思う。
■碇シンジ
全てを終わらせる主人公としてこれ以上ない成長と活躍をしてくれた。
第3村で黒レイが「みんな、碇くんのことが好きだから」と言った時、かつてシンジに自分を投影していた僕も救われた気がした。
『:Q』で負った彼の苦しみは想像に難くない。
自分が聞く耳を持たなかったせいで、心を許した友達が目の前であんな死に方をしてしまった。
14歳の精神でそんなもの耐えられるわけがない。
つらい、もう嫌だ、どうすればいいかわからない……あの時の記憶が際限なく繰り返していたはずだ。
彼はネルフ支部跡で一人うずくまり、一体何を考えていたのだろう?
エヴァになんて乗らなければ良かったと後悔したのだろうか?
自分など死んでしまえばいいと思いながらも、腹が減ることに怒りを覚えたのだろうか?
取り返しのつかないことをしたはずなのに、優しく接してくれる皆に人間のあたたかさを感じたのだろうか?
贖罪のために生きようとしたのかもしれないし、誰かの役に立ってから死にたかったのかもしれない。
それでも立ち直ってくれたことに、僕は感謝しか出来ない。
ケンスケ宅に戻ったシンジは、アスカの嫌味に反発するわけでもなく、上手い返しをするわけでもなく、ただ静かに頷くだけだった。
僕にはシンジの心情を推測するしかないが、それはおそらく"吹っ切れた"でも"乗り越えた"でもなく、"良いことも悪いことも含めて自分がこれまでして来たことを背負うと決めた"のだと思う。
補完計画の立案者である葛城博士、そしてその実行者である碇ゲンドウ。
その子供たちには本来責任も罪も無い。
大きな流れに身を任せて自分は何もしないという選択肢もあったし、仮にそうしていたとしても誰も責めなかったはずだ。
けれども彼らは、ミサトとシンジはそれを選ばず、ヴンダーに乗った。
親にしか無いはずの責任を"自ら引き受け"られる大人に、子供たちは成った。
考えてみれば、"親"とは本当に特別な存在だ。
人の一生において、親だけはどうやっても自分の意志では選べない。
そこにあるのは自分が生まれた時から始まっている、どんなに遠く離れてしまっても繋がりを感じる"きずな"であり、どんなに遠く離れたくても断ち切ることが出来ない"ほだし"だ。
その"絆"を、その責任を自ら引き受けることこそが、"あの親の子"として生まれたミサトとシンジが彼ら自身の人生を生きるために必要なことだった。
そして、シンジがミサトと同じ道を歩む者だからこそ、ミサトは自分の意志を、自らを犠牲にして創り上げた親殺しの"ガイウスの槍"をシンジに託せた。
『エヴァンゲリオン』という作品の結末の"分岐"が、これまでのシンジの行動の結果であることは言うまでもない。
一度目はTV版で、現実から目を背けて自らの精神世界に閉じ籠もった。
二度目は旧劇で、他者と対話出来ず自らの願いだけを叶えてしまった。
三度目の今回はそのどちらでもない、現実と向き合い、立ち直り、他者へと心を開き、意志を継ぎ、そして皆の願いを叶えた。
ゴルゴダオブジェクトで待っていてくれたカヲルには、もうシンジに依存して苦しむことが無いよう、彼自身の安らぎへと導いた。
カヲルがシンジに言った「君はイマジナリーではなく、既にリアリティの中で立ち直っていたんだね」はTV版の最終話や第3村でのシンジの成長を思わせるが、同時に"エヴァの物語が終わってもあなたたちは立派に現実を生きていける"という、エヴァの呪縛に囚われていた僕たちへの庵野さんからの送辞でもあり、かつて罵詈雑言のせいで僕たちに心を閉ざした庵野さんが、僕たちをもう一度信じてくれた証なのだと思う。
アスカには「僕もアスカが好きだったよ」と伝え、第3村へと送り出した。
新劇ではアスカからシンジへの恋心は描写されていても逆は見かけなかった。あの海辺で伝えたということは、もしかすると旧劇までのシンジの心情がそうだったのかもしれない。
スタジオでは綾波に「あとでマリさんが迎え来る」と言っていたが、ユイとゲンドウがインパクトの贄の役割を代わってくれなければ、シンクロ率無限大のシンジは最後のインパクトで初号機と一緒に消滅する気だったはずだ。
シンジがそのことには触れず、皆にあたたかな言葉をかけて見送ったのは、
きっと心配をかけたくなかったからだろう。
エヴァの呪いを解いた皆が、心置き無くそれぞれの人生へと踏み出せるように、と。
そうして全てのエヴァを消し去る最後のインパクトの後、『エヴァンゲリオン』という作品世界の象徴であるシンジが一人取り残された海辺でただの絵へと還元されていった。
自分以外誰もおらず、それゆえに自分と他人との区別がつかない世界……旧劇とは違い、もはや自分の意志だけでは人の形を取り戻せない世界……そのまま消えるはずだったシンジを救ったのが、"マリ"という他者だった。
シンジがマリに救われたのと同じように、庵野さんもモヨコさんに救われたのだと思う。
"たとえどこにいても自分を必ず迎えに来てくれる人がいる"ということこそが、きっと彼にとっての幸福であり、救済だったのだと思う。
そういえば、この作品における"神"とは一体どのような存在なのだろう?
黒き月と白き月を生み出して地球に飛ばし、生命の書に渚カヲルの名を書き込み、人類補完計画を成すことによりゼーレが殺害を企て、ウルトラマンのようなアダムスを創り出してゴルゴダオブジェクトを設置し、あの海辺でシンジを絵に還元しようとした者……おそらくそれはキャラクターたちが属する次元の一つ上の次元の者、つまり、この三次元にいる『エヴァンゲリオン』の創作者たちだ。
物語の創作者は、しばしば「キャラクターが勝手に動き出す」と口にする。この『シン・エヴァンゲリオン』の物語は、創作者たちの手を離れて勝手に動き始めたキャラクターたちが、創作者たちの創り出した「虚構」という名のシナリオを打ち破ろうとする物語だったのだ、と僕は思う。
その意味において、ガイウスの槍と共にエヴァンゲリオン・イマジナリーへと突撃するマリが言った「知恵と意志を持つ人類は、神の手助けなしにここまで来てるよ、ユイさん」という言葉は、まさに彼女たちが自ら意志を持って動いていたことを感じさせやしないだろうか?
これまで『エヴァ』という作品を観てきた人たちは、作中のキャラクターたちのあまりの人間らしさに実在感を覚えなかっただろうか?
シンジたちがこれから生きる先はエヴァの無くなった新世紀……それは僕らの生きる現実だ。
彼を中心にして描かれた『エヴァンゲリオン』というセカイ系の虚構は、彼らが自らの意志で打ち破った次元の先……あの宇部新川駅で僕らの現実と接続し、混じり合った。
ならば彼らはもう、僕らの物語を満たすために消費する都合の良い"キャラクター"などではなく、"僕たちと同じ次元で生きる存在"のはずだ。
だから僕らは、28歳の彼に、彼らに伝えなければならない。
「ここで共に生きてください」と。
おわりに
映画を観る前、"冒頭12分10秒10コマ"を目にして「今作でエヴァは終わらないのでは?」と思った。
映画を観た後、次回作の予告が流れずに館内が明るくなるのを目にして「本当に終わってしまった」と思った。
正直こんなに綺麗に終わるとは……というか今作で本当に終わるとは思っていなかった。
きっとこれまでいくつものアニメーションを観て来たはずの僕たちは、それらのアニメーションの終わりとともにキャラクターたちを、作品たちを見送ってきたと思う。
物語が終わっても作品の中の世界はずっと続く……そう信じて別れを告げてきたと思う。
でもエヴァはそうじゃなく、物語の終わりを、作品世界を僕らの世界と繋ぎ、この現実にシンジたちが生きていることを教えてくれた。
それこそが25年間付き添った僕たちファンにとっての"救済"なんだと思う。
最後に、庵野監督を始め、スタッフの皆さん、エヴァファンの皆さんも、25年間本当にお疲れ様でした&ありがとうございました。
個人的には10年しか付き添って来れなかったのですが、それでもあの鮮やかな完結にとても感動しています。
……とは言え、作中で「さようなら」という言葉をわざわざ「また会うためのおまじない」と定義したんだから、物語の"続き"ではなく既存部分の厚みを増すようなやり方(空白の14年を描いた作品とかマリやゲンドウ視点でのスピンオフとか)をきっと考えてたりするんですよね???
そうした希望も踏まえて、いつかまた別の何かでお会い出来ることを願っています。
さようなら、全てのエヴァンゲリオン。