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「自分は自分のために生きているんだ」とちゃんと自覚しようと思った話

自分は自分のために生きているとは、何も自分の思うように自分勝手に生きよう、ということではない。

むしろ他人に、もしかしたら地球にも優しくできるかもしれない。

そんな話だ。

僕は、カフェ店主をしている。

地元の食材を使って、スイーツとスパイスカレー、お飲み物を提供するカフェだ。

そして、基本的には妻と二人で切り盛りをしている。

そんなある日、詳細は色々と省くが、妻に

「店に行きたくない」

と言われた。

僕はとんでもなく悲しかった。

それは一緒にいたくないとかそういうニュアンスで悲しくなったのではない。

あれ、なんで二人でやっているカフェのことを最優先してくれないんだろう?という疑問からだ。

純粋に不思議だった。

もっというと不審だった。

だって、僕ら二人のカフェを繁盛させることが家計の助けにもなるし、そしてそもそも働くこと自体が楽しくなるはずだからだ。

それなのに、なぜ優先度が低いのだろう、という悲しみだった。


これに似た悲しみを僕は過去に感じたことがある。

と思って思い出したのは、以前、農家さんに仕入れの相談で電話をさせて頂こうと思ったときのことだ。

実際、農家さんと僕の共通の知り合いに頼んで、連絡を取れることになった。

しかし、一向に先方からの連絡がない。

こちらからも電話をかけてみる。

受付の人に繋いでもらうようにお願いしたのが、ついぞ農家さん本人とお話しすることはできなかった。

その代わりに、受付の人からテキストメッセージをもらった。

「本人はお話しする気はないので、もう架けてこないでください。」

直訳すると、こういう話だった。

これも冒頭の経験とほぼ同じくらい、僕にとってはとんでもなく悲しい出来事だった。

そして悲しみの種類は一緒で、なぜ仕入れをさせてもらうことが農家さんにとっても助けになるはずなのに、そんなに消極的なんだろう?ということだった。

なんなら、「一緒に地域の食を盛り上げていきましょう!」くらいの勢いだったのに、なぜそんなに冷めているんだろう。

そういう種類の悲しみだった。


でも、これは僕のとんでもない認識違いだったと、この二件に学んだのだ。


第一に、カフェというのは、妻のためでも農家さんのためでもなく、他ならぬ「自分」のためにやっているということだ。

僕が僕の欲求を満たすためにやっているだけのことだ。

もしかしたら、売り上げが伸びて回り回って妻のためになったり、仕入れによって農家さんに利益がもたらされたりすることはあるかもしれない。

あるかもしれないが、それはあくまで二次的なものだということだ。

コロコロコミックに付いてくるデュエル・マスターズカードの付録みたいなもので、あくまで主役は漫画である。

漫画が面白くて買ってみたら、付録でカードも付いてきたよということ。

それがまかり間違って、カードを手に入れるためにコロコロコミックを買っているような状態になってしまっていた、と気づいた。

もちろん、これまでも自分は自分のためにカフェをやっているんだと思っていたし、そのように言っていた。

でも、心のどこかにはまだ「誰かのためにやっている」という思いが少し残っていて、そして「お前のためにやってるのになんでなんだ……」という悲しみが生まれていた。

そうじゃないんだ。

僕は僕のためにカフェをやっていて、それは他の誰のためでもない。

お客さんのためですらない。

当然、お客さんが喜んでくれたら嬉しいけど、そのためにやっているわけじゃないんだとちゃんと自覚する。

もし、「お客さんのために」が先行すると、きっとお客さんに文句を言われたときに悲しみが生まれる。

お客さんのためを思ってやっているのになんで、と。


自分は自分のために生きている。

これは究極すると、全人類そうなのではないかと思う。

自分という自我が存在する限り、何をしても、その行いに対して感情を感じるのは自分ということになるからだ。

きっと無償の愛を注ぎ続けたマザーテレサも、それによって自分も幸福になっていただろうと思う。

どんな聖人君子も、そうなのではないかと思う。

だから、僕が自分のために生きていないわけなんてない。

ただのそこら辺にいる一般ピーポーである僕が、自分のために生きていないわけがないのだ。

それをちゃんと自覚し、常に胸に刻んでおくということだ。


まさに先ほどの出来事だ。

店の片付けがある程度終わると妻が、

「先に帰るね」

と言った。

僕の口からは、心からの

「ありがとう!」

という言葉が自然に出た。

自分でも驚くほど清々しく、真の笑顔が溢れていた。


きっと前までの僕なら、なんで先に帰るんだよ、なんで二人のためのことなのに蔑ろにするんだよ、と悲しくなっていたと思う。

でも、もはやこのカフェというのは自分が自分の喜びを満たすためにやっていることなのだ。

自分だ「やる」と選択して始め、そして続けている以上、これは僕が僕のためにやっていること。

だから、逆に言えば一緒にここまでやってくれていることに感謝でしかない。


自分がやっていることは、すべてが自分のため。

そう思うと、世界は感謝に溢れていると思わないか。

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今野直倫
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