僕はずっとステージの上にいたい
僕は、ステージの上にいたい人間なんだと思った。
過去を振り返れば、大学時代はアカペラサークルに所属していて、バンドを組んでアカペラをしていた。
アカペラって何?という人は、ハモネプやリトグリやペンタトニックスやゴスペラーズなんかを想像してほしい。
そういう人たちだ。
そういう人たちは決まってステージの上にいる。
テレビでもライブでもなんでもいいが、とにかくステージの上にいる。
僕も大学時代はハモネプみたいな大きな舞台には決して立ったことはないが、イオンモールでの営業や公園での屋外ライブなどをした。
夜のいい感じのレストランで、ジャズバーよろしくアカペラライブをしたこともあった。
ステージの上にいたい。
そんな気持ちは、今も変わらず、そして遠い過去も変わらず持ち続けている僕の普遍的に大事なものだ。
ものなのだ。
そういうような気付きを今日カフェ店主としてコーヒーを淹れたり、お客さん対応をしたり、後片付けをしたりしながら得た。
そして今はレジ締めをやろうとしてパソコンを開いたら、気づけばnoteを書き出していた。
業務そっちのけで筆を走らせていた。
否、キーボードを叩いていた。
キーボードを叩く手は止まらない。
すなわち、書き切らなければ仕事が終わらないということなので、なんとかかんとか書き切りたいと思う。
ステージの上にいたい、という話。
何も物理的に "ステージの上" にいたいということではない。
今からカフェ店主を辞めて路上ライブでも始めて、東京ドームを埋めるミュージシャンを目指そうか、ということではない。
カフェ店主も。
あるいは、高校まで続けた野球も。
小学校のとき、クラス中から注目を浴びた作文も。
また、ひょんなことからたまたま出演した、世界仰天ニュースや鶴瓶の家族に乾杯も。
僕にとってはステージの上である。
ステージの上にいる、というのはどういうことか。
僕にはミュージシャン?バンドマン?アーティスト?の友達が多くいて、2〜3年前はよく東京のライブハウスに遊びに行っていた。
ライブを見ると、決まって強い感情が生まれる。
嫉妬。
これはポジティブな意味で。
友達がステージの上で輝いているのを見ると、「あんなふうに自分も輝いていてえ!」と思うのだ。
ステージの上にいる人は輝いている。
それが東京ドームであれ、武道館であれ、東京の小さなライブハウスであれ、規模の大きさは関係がない。
ステージの上にいるということ。
それが僕にとってとても大事な価値観であった。
正直にいうと、今メインとしている仕事であるカフェ店主、そして今のスタイルは少し物足りない。
ステージの上にいるようで、いないようで、いる。
そういうような感覚がある。
僕がコーヒー屋を始めたとき、僕は路上でコーヒーを淹れたり、お客さんのお家にコーヒーを淹れに行ったり、車中泊で日本一周しながらコーヒーを各地で淹れて回ったりした。
あれは、ステージの上だった。
紛れもなく完全にステージの上だった。
ステージの上、というのは輝きを放っているのと同時に、ステージの上から転げ落ちてしまうのではないかというハラハラ感がある。
もちろん物理的に転げ落ちるということではない。
そんなバンドがいたら、ダサい。
そうではなく歌詞を間違えたり、音を外したり、MCのネタが飛んでしまったり、与えられた演奏尺に収まらなかったり、そういった綱渡りの状態があるということだ。
小学校から高校まで続けた野球は、エラーしたり、三振したり、サインミスをしたり、とにかく恥ずかしさの可能性を抱えながらグラウンドに立っていた。
僕は野球が下手だったから、その可能性がとてつもなく高く、まるで日本海側の梅雨の降水確率のように高かったから、しょっちゅうステージから転げ落ちる思いをした。
それでも、小中高と青春時代のほとんどの時間を野球に注ぎ込んだのは、あのステージ上で輝く感覚が麻薬のように忘れられなかったからだ。
麻薬のように、と書いたがもちろん麻薬は吸ったことがない。
めちゃくちゃ想像で書いている。
ここで1点取られたら負けるという場面でダブルプレーを取ったり、逆にここで打ったら逆転だという場面でヒットを打ったり。
その感覚はとてつもなく中毒性があって、また味わいたい、また味わいたいと脳みそが思ってしまうのだ。
それはステージ上だからこそである。
友達と放課後にやる野球は楽しさこそあれ、部活動の公式戦のようなハラハラ感はない。
やっぱり、遊びでやるものはステージ上ではないのだ。
本気でやるからこそ、輝く。
でも、野球はさっき書いたように下手くそだったから、輝く回数よりステージから転げ落ちる回数の方が多くて、辞めた。
ステージではあったが、僕のステージではなかった。
アカペラ、教員、代表取締役社長、といろんなステージに立ってきたが、辞めてきたということはやっぱり僕のステージではなかったのだろう。
カフェ店主は、僕のステージだという感じがする。
でも物足りない。
ステージが一つというのが物足りなくなっているのか。
いや、数の問題ではないなと思う。
そうだ、カフェは僕自身がステージに立っているわけではない。
「絲と糸」というカフェがステージに立っている。
だから、どこか輝くのも転ぶのも間接的という感じがしてしまうのだ。
僕には、僕が僕としてステージに立つ場所が必要だ。
それが、文章ではないかと思っている。
そして、コーヒー屋を始めたときに興奮を味わった、全国行脚ではないかと思っている。
本を作る。
その本を持って全国行脚をする。
そこにコーヒーがあったら素敵だ。
来年はそのような年にしたいなと今は思っているが、いかんせん年が明けたらまた違うことを言っているかもしれない。
別のステージの上に立っているかもしれない。
僕にとってはステージの上にいることが重要で、その中身はもちろん大事だが、それはステージを探す中で変わっていくと思う。
ステージの上にいたい。
ステージの上にいたい。
ステージの上にいたい。
ステージの上でスポットライトやレーザービームを四方八方から浴びながら、縦横無尽に駆け回る様子を頭で想像。
ふっと我にかえる。
そこにはまだ数えられていない現金の入ったキャッシュボックスと、売上・経費などのレポート画面を映し出すディスプレイがある。
そこにあるのだ。