お洒落とは何なのか?に対する僕なりの答え
カフェといえば、お洒落。
お洒落といえば、カフェ。
と相場は決まっている。
僕のカフェも例に漏れず、お客さん方にお洒落と言って頂いている。
う、うそではないです。
ほんとうに。
少なくとも僕は、お洒落な雰囲気でお客さんに過ごして頂けるよう努めている。
もちろん、テナントの関係とかで制限はあるけれど、その範囲内で最大限に取り組んでいる。
それで、あらためてお洒落とは何か?ということを考えてみた。
僕たちは気軽に、お洒落という言葉をつかっているが、それが何なのか意識することは少ない。
なんとなくお洒落だなぁと思うから、お洒落だなぁと言っているのだ。
(小泉構文感。)
しかし、小泉構文感が出てしまうのも仕方がない。
僕たちは何か論理立てて、これはお洒落だ、お洒落でないと判断しているわけではないからだ。
直感的に目の前の情景を感じて、気付いたときには口からお洒落だなぁと言葉が出ている。
そういうものだ。
お客さん視点としてはそれで良いのだが、お店側としてはそれではいけないとも思う。
僕たちは、それを繰り返し再現しなければいけない。
新メニューは一生出し続けるし、店舗の内装は変化し続けるだろう。
僕たちは、お洒落であり続けることを求められている。
だから、何か基準になるようなものはあったほうが考えやすい。
新しいメニューを出すにしても、内装をいじるにしても。
お洒落。
語源辞典を引いてみると、「お洒落の語源は "戯る(さる)" にある」と書かれている。
そして、「戯れる(ざれる)には、趣があるという意味がある」とも書かれている。
そこで、さらに趣とは何なのかを調べてみる。
お洒落に近い感情として、趣深いと言ったりもするが、これもあまりよく分かっていない。
なんとなく趣深いなぁと思うから、趣深いなぁと言っているのである。
(小泉構文感。)
きっと小泉氏は、理論派というよりも直感派なのであろう。
直感がそう言っているから、そう言っているのかもしれない。
大丈夫、僕もそのタイプだ。
さて、趣とはこういった意味合いのようだ。
なるほど、僕なりに解釈すると思いを馳せるというのが近い気がしている。
その対象を見たときに、心は対象自体を見ているわけではなく、どこか遠くにトリップしている。
そういうものだろう。
スタバでコーヒーを飲むとき、それはコーヒーを通してスタバ的世界感を見ている。
本人は感じていなくても、コーヒーを提供しているだけではない、スタバの世界観という深みがそこには横たわっている。
この深みが見るものに、趣を感じさせる。
スタバの例を出したので、スタバのその深みとは何なのかというと、家でも職場でもないサードプレイスだ。
この世界観があるのとないのとでは、目の前のコーヒーの背景に広がる深みが違う。
その深みを、我々は趣として感じ取っている。
表層のデザインが素敵とか、見た目が美しいとか、それも大事ではある。
しかし、たぶんそれだけでは趣は生まれない。
表面だけ取り繕った美しいものは、むしろどこか虚しさを感じさせる。
なぜ、こういうデザインなのですか?
と聞かれたときに答えられないのでは、それこそ興醒めである。
そこには背景となるストーリーや意図、世界観があってほしい。
それが趣であり、お洒落という感覚につながる。
僕はまさにこの世界観というものを非常に大事にしている。
というよりも、お洒落にしたいから世界感を作り出しているわけではなく、そもそも世界観があってそれを表現する方法がたまたまカフェであったということに過ぎない。
だから、僕にとっての課題は、どれだけその世界観を鮮明に頭に描けるか。
キャンバスに描く線の末端の止め、跳ね、払いの質感まで、具体的にイメージできるか。
そして、それをいかにカフェとして再現し落とし込めるか。
自分の世界観を深める作業と、具体に落とし込んで表現する作業。
この2つの精度を高めていくことが、お洒落であり続けることに繋がる。
お洒落とはつまり、世界観である。
では、その世界観とは何なのか?と問われると、大変困ってしまう。
なぜなら、世界観とは世界観だからである。