苛つきの原因は、満たされなさ
苛つきの原因は、満たされなさだ。
指摘された事柄自体、文句の具体的な内容自体は、実は何の関係もなかったりする。
たとえば、プロサッカー選手がチームメンバーから下手くそだ、努力が足りてないと言われたら苛つくと思う。
でも、小学生のサッカー少年から同じことを言われたらどうか。
きっと微笑ましくて笑ってしまうと思う。
もしくは、そんなことないけどな?と思いながら苦笑いをするか。
(フランスのスタッドランスで活躍する伊藤純也選手がそんな感じだった。)
つまり、内容は苛つきの直接の原因ではない。
この場合、誰が言うかが問題になっている。
もっといえば、自分自身の視点の高さの問題だ。
視点は階段のように上がっていき、ある段が満たされると次の段に上がる。
ワールドカップ優勝の時点で戦っているサッカー選手は、自分自身が馬鹿にされるとか、そういう土俵にはいないということだ。
僕は、カフェ店主をやっている。
でも、お客さんに理不尽なことを言われたり、訳のわからないいちゃもんを付けられても怒りが湧いてこない。
本当に湧いてこないのだ。
ふと隣の妻を見ると、ムスッとしていたりするから、一般的には苛っとしてもいいことなのだと思う。
僕は僕が何を言われようとどうでもいいのだ。
なぜなら、僕はこのカフェを営業することを通して、多くの人にこの町を訪れてほしいと思っているからだ。
その視点で常に語っている。
だから、何か理不尽なことを言われても、「まあそういう考えもあるか」くらいにしか思わない。
でも、最初からそうだったかというとそういうわけではない。
コーヒー屋を始めて半年くらいのこと。
そのときは店舗は持っておらず、イベント出店や間借り出店をしていた。
ある日、野外のイベントでコーヒーを振る舞っていると、あるお客さんが目の前で、
「こんな不味いもの飲めるか」
と言って、道の側溝にそのまま捨てた。
返金を申し出たが、返金すらもさせてもらえないという惨めさだ。
悲しかったのと同時に、大の大人がこんなことをするのか?という怒りが沸々と湧いた。
コーヒーの腕が十分でなかったのもあるかもしれない。
ただ、もちろん美味しいと言ってくれるお客さんも沢山いたので、致命的に不味いコーヒーを淹れていたわけではないと思う。
そういう状況を鑑みると、やっぱり目の前のお客さんの態度には腹が立った。
それはやっぱり当日の僕が満たされていなかったからだと思う。
自分で自分を満たすことができていなかったから、目の前の悪口や態度に過剰に反応してしまったのだと思う。
満たされない状態だと、段を上げることができない。
お客さんと同じ視点で物事を見ているので、真っ向から対立をしてしまう。
そうではなく、自分を満たしてあげて、視点を上げる。
自分は満たされていると自覚すると、外野の声が耳に入らなくなってくる。
むしろ、「指摘してくれて、ありがとう」という気持ちになってくるものだ。
だって、コーヒーは美味しいほうが、たくさんの人がこの町に来てくれることに繋がる。
その気付きを与えてくれたことに感謝だ。
(もちろん、その人にとって美味い不味いという話ではあるが。)
目の前のことに苛ついてしまったら、自分は満たされていないのではないかと考えてみる。
仕事?
人間関係?
趣味?
お金?
自分で自分を満たしてあげることができているだろうか。
あるいは、満たされていることに自覚的になれているだろうか。
満たされていても自覚できていない、ということが多いように思う。
僕がそうだった。
さっきの話に戻るが、その当時、コーヒー屋をできていたという紛れもない幸せだった。
店を持っていなくても、イベントや間借りでコーヒー屋をできている。
そのこと自体、とても満たされる活動であったのだ。
そのことに気付いてからは、自分の仕事に誇りを持てたし、外野の声が気にならなくなった。
もっと多くの人にコーヒーのおいしさを伝えるんだ。
そういう視点に上がることができ、全国を回ってコーヒーを淹れる活動を始めた。
そうすると、不思議と不味いと言われることもなくなった。
目の前の事柄に気を取られているうちは、実はちゃんと向き合っているようで向き合っていない。
ただ、その悪口に執着し躍起になっているだけだ。
本当の上達は、そのような矮小なものからは生まれない。
自分の中に湧き上がる情熱や信念といったポジティブなものから生まれる。
この辺りもやはり、自分を満たすと芽生えてくるように思う。
自分を満たす。
自分はこれをすると満たされる、これをしていれば満たされる、というものを見つける。
そして、満たされている自分を自覚する。
気にかけて見てあげれば、きっとそこには満たされている自分がいるはずだ。