「本が読めない」という悩みの正体やいかに
本が読めない、という悩みがある。
僕もつい1ヶ月前くらいまで、「僕はもう二度と本を完読できないのではないか」と思うほどに、本が読めなかった。
子どもの頃は本の世界に没頭し、文字を追っているのか、もはや本の中の世界にいるのかわからなくなるほどのめり込んでいた。
ハリーポッターなんていうともすれば鈍器にもなり得るようなあの分厚い本を、よくも読み切れたなと感心する。
その時、もはや僕はホグワーツ魔法学校の一員だった。
ハリーとともに戦い、ハーマイオニーとともに授業を受け、ロンとともにネズミと戯れていた。
そんな僕がもう1ページを読むだけで集中力が切れ本を閉じてしまうことが、ショックでショックで仕方なかった。
でも最近になって「読書リハビリ」をしていくごとに、何か昔の感覚を取り戻してきたような気がする。
端的にいうと、本を読み切れるようになってきた。
今日のことだ。
僕は急に「よし!デジタルデトックスをしよう」と思い立って、スマホを寝室のベッドの上に投げ捨てた。
そして、一冊の本とメモ用紙とボールペンだけを持って、馴染みのコーヒー屋に向かった。
携帯を不携帯である。
「コーヒー屋行ってくる。スマホ置いてくから」
と突然に妻に告げて、家を飛び出した。
スマホくらい持っていってよと言われるかと思ったが、意外にもあっさりと了承して送り出してくれた。
かえって僕のほうが面食らってしまった。
そんなわけで馴染みのコーヒー屋で、今まさにコーヒーとガトーショコラを戴きながら、これを書いている。
一枚のメモ用紙に、文字をギチギチにしながら。
(家に帰ってきてから、noteにそのメモを書き写している。)
店内にはインストラメンタル穏やかなBGMが流れて、ちょうどいい環境音もあり読書が捗る。
スマホを持っていかなかったので、コーヒーの写真も、ガトーショコラの写真も、読んだ本の写真もない。
しかし、それがよかった。
普段コーヒー屋で読書をしようものなら、Instagramに投稿しようなどと考えて写真を撮り、投稿する文章を考えだしてああでもないこうでもないと言っている間にコーヒーを飲み終わり、気付いたら1ページくらいしか読まずに店を出ていたりする。
何のために来たんだ。
でも、今日はInstagramとは無縁だ。
だって写真を撮るためのスマホがないし、アプリを開くためのスマホがない。
スマホなしバンザイ!
携帯不携帯バンザイ!
誰だ、携帯電話を携帯電話と名付けたやつは。
携帯電話という名前が付いているから、僕たちは携帯電話を携帯しなければいけない気になっているのではないか。
「携帯電話を携帯しないなんて、ただの電話でしょ」
というツッコミが成立してしまうから、僕らは携帯電話を持たざるを得ないのではないか。
もう不携帯電話という名前にしてしまえばいい。
そんなことが少し頭をよぎったくらいで、このメモを書きつつ本を読み進める時間が2時間ほど続いた。
思ったのだが、「本が読めない」という悩みは実は「本が読めない」ではなく、「スマホを触ってしまう」という悩みなのではないだろうか。
そう考えると、全ての辻褄が合っていく。
僕がハリーポッターの世界にのめり込んでいた頃、世の中にスマートフォンなんてものは存在していなかった。
たぶん、ガラケーが一般に普及したくらいの頃だが、小学生だった僕には携帯電話なんて無縁の存在だった。
携帯電話およびスマホがなかったから本を読めていた、というだけの話ではないのか。
若者の活字離れが社会問題として叫ばれるが、活字離れというよりはスマホ近付きなのではないか。
携帯電話携帯をするからスマホ近付きが起きるのであって、スマホ遠ざけをすれば活字近付きが実現するのではないだろうか。
つまり、不携帯電話という名称にすれば、万事解決なのではないか。
「今日からスマートフォンを含む携帯電話一般は、不携帯電話という名称に統一する」
と文部科学省か何かの偉い人が宣言をし、広辞苑や国語辞典も改訂し、「不携帯電話を携帯するなんて、それただの携帯電話じゃん」というツッコミが成立すれば、若者の活字離れは是正されるのではないか。
されないか。
コーヒー屋で本を読んでいた僕は、お手洗いに立とうと途中まで読んだ本を閉じて、ため息を吐きながら虚空を見上げた。
「ああ。いいなぁ」
という言葉が口を突いて出た。
何がいいのかはわからない。
何がいいのか具体的なことはわからないが、たぶん今日という日全体の過ごし方を漠然と感じて出た言葉だろう。
それにしても、このメモを書くのに必死で、結局、本は読み終わらなかったな。